24.


『先生、どうしてないてるの?』

 小雨が続く夜、先生のすすり泣きが聞こえた。そっと書斎を覗き込めば、そこで蹲る影がある。小走りに傍まで寄り、その大きな背中を一所懸命に摩った。いつもの朗らかな先生に戻って欲しくて、何度も呼び掛けながら。

……エリク』

 はっとした様子で、やがて先生が顔を上げた。拍子に一冊の手帳が落ち、先生は咄嗟にそれを拾う。エリクはその手帳が何なのか、おぼろげに理解していた。

 きっと──先生の、本当の家族が持っていた物だ。

『先生、なかないで。ぼくがいっしょにいるよ』

 少しでも先生の悲しみが和らぐように、傍にいること。それが自分の使命であり恩返しなのだと信じて疑わなかった。

 小さな両手を伸ばせば、先生の節くれ立った手に包み込まれる。かと思えば背中を抱き寄せられ、優しい温もりでエリクの安堵を誘う。

 

──お前の声には力が宿っているみたいだ。とびきり優しい力が』

 

 先生は掠れた言葉を呟いて、泣き腫らした瞼を閉じたのだった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

「な……あれは……!」

 騒然となる闘技場の片隅で、外套の男は狼狽した。闘技の最中に金髪の少女が唐突に倒れ、相手を務めていた青年がその体を肩に担ぐ。目を凝らさずとも分かる。濡羽色の髪を持つあの青年は、皇太子の──。

「!?」

 思わず右足を後退させたとき、視界の端に銀の煌めきが突き付けられた。息を呑み、がたがたと震えた体で刃の方を振り向く。背後に立っていたのは、柔和な笑みを携えたフランツだった。無論、その手に握られた剣は、男の喉元をいつでも貫けるよう固定されている。

「ごきげんよう、ジョルジュ伯爵」

……エン、フィールドの」

「あの娘はあなたの手先ではなかったようですね。いやはや、こうも上手く事が運ぶとは思いませんでした」

 釣りは苦手なのですが、と適当なことを言った彼は、男が逃げ腰になっていることに気付いては剣を振る。切っ先が鼻先を掠めると同時に尻餅をつき、男は忌々しいとばかりに歯噛みした。

「貴様……あのような娘をどこで……」

「私、久々の休暇だったんですよね。愛しい婚約者を口説きに行くつもりだったんです。それがどういうわけか貴重な休日を返上してまで、事件の調査に加わらなければいけない事態になってしまいまして」

 返答の代わりにもたらされたのは、笑顔と言葉に滲む苛立ち。大袈裟に溜息をついたフランツは、舞台にいる少女と青年をちらりと一瞥し、冷ややかな声で告げる。

 

「ジョルジュ伯爵。貴殿を皇太子暗殺未遂事件の容疑者として連行する。殿下に弓引いたこと、獄中で後悔するといい」

 

 一切の感情を消した眼差しで、フランツは容赦なく剣を振る。横っ面を勢いよく殴られた男は、駆けつけた騎士らによってその身を拘束された。羽交い絞めにされ、頑丈な縄で自由を奪われる。

……っ私は、私は何も知らされておらんぞ。あの暗殺者も、元は勝手に押し付けられたのだ……! それが、殿下の暗殺などという勝手な真似を!」

 錯乱した男はなおも喚き立て、やがて騎士から猿轡を噛まされては、護送用の馬車に放り込まれたのだった。

 

 

 ──その光景を、柱の裏から図らずも目撃してしまったカイは、白い目でフランツの後ろ姿を見詰めていた。

……あいつやっぱロクでもない奴じゃん……?」

「おや、カイ殿。無事でしたか」

「うわ気付いてる!!」

 平然とカイの方へと歩いてきたフランツは、やれやれとわざとらしく頭を振る。騒々しい空間を仰いでは、芝居じみた仕草で両手を挙げてみせた。

「何とも、ここは悪趣味な場所ですね。エリク殿を宥めるのも一苦労でした」

……いや、そりゃ……ここに来ることになったの、全面的にあんたのせいなんだろ。あいつも怒るわ」

「そうですね、後でしっかりお詫びしておきましょう。ニコ嬢への疑いも晴れたことですし」

「へ?」

 カイは思わず間の抜けた声を上げたが、既にそこにフランツの姿はなく。慌てて闘技場の出口を見遣れば、「早く来い」と言わんばかりに、フランツが微笑んでいた。

 

 

 □□□

 

 

 ──“ジョルジュ伯爵の動向に注意せよ”

 

 ある日、アーネスト皇太子はフランツを始めとした忠臣にそう告げたという。皇太子はその言葉の真意を話そうとはしなかった。ただジョルジュ伯爵の動きをつぶさに観察し、怪しい点があれば報告をしろと。

 無論、何の騒ぎも起きていない状況で伯爵家に密偵を送り込んでも、特にこれといった情報は入ってこない。根拠も無しに調査を命じるなどという、らしくない皇太子の言動に、当初はフランツも首を傾げたものだ。

 だが、すぐに事件は起きた。皇太子を謎の暗殺者が襲ったのだ。

 自身が警戒していたこともあり、皇太子は傍に置いていた近衛騎士と共に暗殺者を撃退。暗殺者の身柄を拘束することは叶わなかったが、命を落とすような悲惨な事態にはならずに済んだ。

 尖った耳と、小柄な体型。皇太子は暗殺者の特徴を記し、ティール聖王国の諸公に捜索を命じた。もちろん予てから疑っていたジョルジュ伯爵にも同様の書簡を送って。だからと言ってそう簡単に暗殺者と黒幕を炙り出せる証拠も手がかりも、皇太子側には何一つなかった。

 しかし、厳重な警備を敷いていた王宮に暗殺者を送り込むには、内部からの手引きがあったと考えるのが妥当だろう。さて、どう調べようかと皇太子が思案していた頃のこと。

 

 ──束の間の休暇中だったフランツの前に、ニコという少女が現れた。

 

 耳は不自然に尖っている上、体型も華奢。この少女が暗殺者なのかとフランツは驚愕したが、如何せんニコは暗殺者とは程遠い様相を見せた。その後、凶暴な獣を捻り潰す光景を目の当たりにしたが、やはり確信を持つまでには至らず。

 ゆえにフランツは獣の死骸を聖都へ運ぶついでに、帰還早々、皇太子へ提案した。少女を聖都に召喚することを公表し、ジョルジュ伯爵の反応を窺ってみるのはどうか、と。自らが差し向けた暗殺者が捕縛されたとなれば、尋問の末に事情を全て吐露される前に始末しようとするかもしれない。それがジョルジュ伯爵でなかったとしても同じこと。上手く行けば暗殺を企てた者を誘き寄せることが可能だと説明したところで──“彼”が口を開いた。

 

『直に剣を受ければ分かる。その娘をこちらに寄越せ』

 

 皇太子の近衛騎士であり蒼穹の騎士団の若き副長、ブラッド=オールゼン侯爵。事件の夜に暗殺者と剣を交えた彼は、ニコの嫌疑を晴らす役割を買って出たのだった。

 

 

 

──結論として、そいつはあのとき戦った暗殺者じゃない」

 闘技場の控室にて。口元を血に染めていたブラッドは、綺麗にそれを拭った後でそう告げた。濡羽色の髪は瞼の辺りで切り揃えられ、その下では鋭すぎる同色の眼差しがこちらを射抜く。見られただけで委縮するなんて初めてだった。

……わ、分かるものなんですか」

 エリクは戸惑いを露わにしつつ尋ね、長椅子で眠っているニコを一瞥する。この控室に駆け付けたのは今さっきのことだが、彼女はエリクの気配を感じ取るや否や、眠ったまましがみついてきた。またもや抱き枕状態を余儀なくされ、エリクは仕方なしに彼女の腕を腹部に引っ付けたままブラッドと話す羽目になっている。

 だがブラッドは特に興味がないのか、侯爵と言うには些か豪快な所作で向かいの椅子に腰を下ろした。

「ああ。あの暗殺者より戦い慣れてる」

「そうで……ええ!?」

 つい安堵しかけたエリクは、なお一層の驚きを覚えて声を上げた。よもや「ニコの方が暗殺者よりも格上だった」など、当然言われるとは思っていなかったから。結果的にニコの嫌疑が晴れたことに違いは無いのだが、これは喜んでもいいのだろうかと。

「だが……エンフィールドが言っていた通り、少し気になるな」

「え……何がでしょうか」

 ブラッドは少女の寝顔を見詰めたあと、ふと息をついて立ち上がった。

 

「エリクと言ったな。──殿下がお会いになるそうだ。来い」

 

 

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