21.


 エリクの後ろ姿が図書館の中に消えたところで、カイはふと溜息をつく。振り向けば、エリクがいなくなったせいかそわそわし始めたニコと、直立したまま微動だにしない騎士三人がいる。加え、周囲からは時たま刺さるような視線が飛び、何ともまぁ居心地の悪い場所である。

「うへぇ……学者って妙なプライドがあんのな。騎士さん方も大変だ」

……いえ、よくあることです」

 毅然と答えたものの、騎士の顔色はやはり優れない。彼らだって幼い頃から武術だけでなく、算術や国の歴史を叩き込まれた部類の人間だろうに。何がそこまで気に食わないのかと考えると──。

「大方、あれだな? 学者は騎士と違って晴れ舞台が少ないから僻んでるんだな?」

 思いのほか声が大きかったのか、通りがかった学者から凄まじい嫌悪の視線が刺さった。カイは頬を引き攣らせたが、そのような反応は図星と証明しているようなものだ。目は口程に物を言うとはこのことだろう。やれやれと頭を振り、カイは図書館を囲う鉄格子に凭れ掛かった。

「ま、どうでもいいけど……」

「ひっ」

「あ?」

 妙な声が上がり、すぐ傍にいたニコに視線を移す。目が合った直後、彼女がまた「ひっ」と声を上げる。騎士たちも「ん?」と怪訝な表情を浮かべる中で、カイはからかうような笑みでニコを指差した。

「お前それ、しゃっくりか?」

……ひっ」

「うはは、やっぱお前子どもだな──ひっく」

 バッと口元を手で覆えば、騎士たちの視線がこちらに寄越される。

 まさかしゃっくりが伝染するとは──カイは大袈裟に咳払いをしつつ、ニコの鼻先に人差し指を立てた。大きく息を吸い込んで、止める。順に指を増やし、五つ数えたところで勢いよく息を吐き出した。

「ま、俺は親切だから? 身を挺してお前にしゃっくりの止め方を教えてやったわけだな、うん」

……ひっう」

 ニコはまたしゃっくりをしつつ、カイの真似をして大きく息を吸う。そのまま両手で口を押えてみたが、途中で敢え無く息が漏れていた。

「いや下手くそかよ、ほらもう一回──」

 

──動くな」

 

「ひょえ!?」

 そのとき、何の前触れもなく首筋に冷たいものが宛がわれる。全く身構えていなかったカイは硬直し、目の前でなおも息を止めたままのニコを見遣った。彼女は不思議そうに瞬きを繰り返し、カイの首筋にある刃を見る。

「?」

「ちょ、ちょちょ、ニコさん、ニコさん息止めてないで、俺の後ろ誰がいるの、すっごい怖いんだけど、ちょっと」

「キタナイ」

「俺じゃなくて!! いや俺キタナイじゃないけど!!」

 ぐっと刃が皮膚に食い込み、カイは悲鳴を噛み殺す。慌てて周囲に視線を巡らせてみたが、三人の騎士も同様に背後から刃を突き付けられているではないか。それも皆、みな甲冑に身を包んだ屈強な男ばかり。物騒な光景にカイは思わず青ざめたが、ここで無暗に騒ぐと首の皮一枚ぐらいは余裕で剥がされそうだった。ひとつ深呼吸を置いてから、カイは「あー」と無意味な音を発する。

「な、何の真似だよ。よくこんな人目のつく場所で刃物なんざ出してきたな?」

「口を閉じよ。エンフィールド卿の言っていた件の容疑者は貴様らだな」

「容疑者ぁ!? 何の話だ!?」

「来てもらうぞ」

 いつの間にか両手首を縄で縛られてしまい、カイは数日前と同様に引きずられ始める。いや数日前より拘束は緩いが、そういう問題ではなくて。一体どういう了見だとカイが大声を上げようとしたとき、護衛の騎士三人が突如として剣を引き抜いたことで場は騒然となる。

「うお!?」

 甲高い剣戟が鳴り響くと同時に、周囲から悲鳴が上がる。護衛の三人のうち、二人はすぐさま近くにいた兵士を弾き飛ばし、残る一人がニコとカイの元へ駆け寄る。

「カイ殿、ニコ殿と共に図書館の中へ、早く!」

「どええ!? い、いいけど俺じゃそいつ引っ張れねぇぞ!?」

 こんな状況でも呆けているニコを見て、カイは頭を抱えたくなる。彼女は自身やエリクが危険な目に遭わないと、どうにも危機感が湧かないようなのだ。「何を騒いでいるのだろう」と言わんばかりの顔つきに溜息を堪え、カイは縛られたまま走り出そうとしたのだが。

「いっ……!」

「! キタナイ」

 追って来た男にうなじの辺りを強打され、その場に崩れ落ちる。すると珍しくニコが反応を示し、蹲った彼の傍にしゃがみ込んだ。瑠璃色の瞳に鋭い光が宿りかけたのも束の間、彼女の口に布が宛がわれる。

 まさか布に薬品を滲み込ませて──とカイが焦りを抱いた直後。しゃっくりで思い切り息を吸い込み白目を剥いたニコは、そのままカイの上に倒れ込んでしまった。

「でええーッ!? ば、馬鹿、今のはねーだろぉ!?」

「その男にも嗅がせろ、運ぶぞ!」

「げ!?」

 護衛の騎士が足止めを食らっている最中、カイにも薬品を滲み込ませた布が押し付けられる。途端、急激な睡魔に襲われ、意識が遠のいていく。一体何がどうなっているのか、訳も分からないまま彼は気を失ってしまった。

 

 

 □□□

 

 

 頼まれていた古文書の翻訳本を無事に渡し、司書に挨拶を終えたエリクは足早に出口へと向かう。背の高い書架の間をすり抜け、吹き抜けになっている広い閲覧室の脇を静かに通過する。

……?」

 ふと、視界に明るい色が映り込む。煤けた装丁の本と、古木の棚ばかりが立ち並ぶ図書館で、その紫水晶は一際輝いて見えた。

 こちらに背を向けている女性は、何やらわたわたと顔を動かしている。彼女の足元には散らばった何冊かの本。傍目から見ても慌てていることが分かり、エリクは少々迷ったものの、そっと後ろから声を掛けてみた。

「あの、どうしたんですか?」

「! まあ!」

 肩口まで真っ直ぐに伸びた、美しい髪が靡く。中央で分けた前髪から額を大きく見せながらも、決して品を損なわない穏やかな顔立ち。長袖の白いワンピースに、少々不似合いにも見える肩当とマント。不思議な出で立ちだなとエリクが首を傾げたのも束の間、彼女はとても安堵した様子でこちらに駆けてきた。

「ああ、ごめんなさい。本を落としてしまって、手伝っていただけませんか?」

「え……あ、はい」

 既に彼女は何冊かの本を抱えていた。落ちてしまった本をこれ以上拾えずにもたついていたらしい。心底ほっとした顔を向けられたエリクは断ることもできず、取り敢えず本を拾い始めた。こちらも片手しかないのであまり効率が上がったとは言えなかったが、それでも彼女があわあわと立ち尽くしているよりはマシだっただろう。

 やがて彼女が最後の一冊を書架に納めたところで、「ふうっ」と呑気な溜息が為される。

「よかった! あなたのおかげで片付けられました、ありがとう……って、あなた! ど、どちらで右腕を落とされてきたの!?」

「い、いえ、これは元々です、床には落ちてないですからっ」

 混乱のあまり書架の隙間を覗き込む彼女に、エリクは頬を引き攣らせつつも慌てて宥める。もう何年も前の事故だと伝えれば、彼女は「そうでしたか」と恥ずかしそうに縮こまった。

「ごめんなさいね、そうとは知らずに……しかも片付けまで手伝わせてしまったわ、ああ、駄目ね私ったら」

「いえ、そんなに気にせずとも……すみません、急いでるので僕はこれで──」

 

「エリク殿はおられるか!」

 

 静寂を突き破る大声。エリクは目を瞬かせ、きょとんとしている女性を置いて閲覧室の方へと駆ける。

 迷惑そうな顔をした学者が、こそこそと陰口を叩く。彼らの間を縫って辿り着いたのは、図書館の正面扉だ。受付の前で職員に止められているのは、フランツから預かった護衛の一人だった。

「あの!」

 エリクが咄嗟に声を掛ければ、騎士がこちらを振り返る。そして職員を軽く押しのけつつ、エリクの元へ大股に近付いてきた。

「どうしたんですか、何か……」

「申し訳ありませんが至急、フランツ様の元へ御同行願います」

「えっ?」

「ニコ殿とカイ殿が何者かに連れ去られました」

 手短に告げられた言葉は、すぐには理解できなかった。騎士を見詰めたまま暫し硬直していると、続けて言葉が掛けられる。

「他の二名が既に追跡しております。身の安全を確保するため、エリク殿は王宮へ」

「ま……待ってください! 連れ去られたって、一体どうして」

 

──どうか落ち着いてください、エリク殿」

 

 加速しかけたエリクの言葉を遮ったのは、いつの間にか図書館の入り口に立っていた紳士──フランツだった。騎士が反射的に一歩下がるのと同時に、いつも通りの笑顔を携えた彼が目の前までやって来る。

「フランツさん……!」

「エリク殿、ニコ嬢の居場所については大体の見当がついています。殿下にも許可は頂いていますから、早急に突撃を仕掛けましょうか」

「へ」

 

「ああ、あなたがたを“餌”にしたこと、先に謝っておきますね」

 

 フランツの笑みが、酷薄に歪んだ瞬間だった。

 

 

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