18.


 がたがたと馬車の荷台で揺られながら、エリクは流れる景色を眺めていた。見渡す限りの草原と森、大きく隆起した山々、木々の間から射し込む眩しい陽光。既に爪ほどの大きさになった城郭都市を見詰めていると、左手をゆるく握られる。

「ニコ、起きた?」

 そっと呼び掛けてみたが、仰向けに寝転がったニコは気持ちよさそうに眠ったまま。昨晩、宿屋ではよっぽど眠れなかったのか、この馬車に乗るなり熟睡してしまったのだ。蝶に襲われたり水に落とされたり大変だったしな、と自虐的な面持ちでエリクは彼女の手を握り返す。

「よく寝るなぁ。赤ん坊でもそんなに寝ないだろ」

 反対側を見れば、荷台の隅に腰掛けたカイがいる。彼は感心したような呆れたような、そんな顔でニコを見下ろしていた。彼の物言いにくすくすと笑いつつも、エリクは「確かに」と答える。

「町にいたときもずっと眠そうだったよ。僕も少しは見習わなきゃな」

「あー……そういやお前、学者の端くれなんだっけ? 寝不足業界の人間だな?」

「何だいその名前」

 一頻り笑うと、馬車が段々と減速していく。二人が進行方向を振り返れば、林の中に野営地が見える。どうやら行商人がよく使用する休憩地点のようだ。やがて馬車が止まると、すぐに馭者が荷台の方へとやって来た。

「すまんね、ちょっと馬を替えてくる。しばらく適当に休んでてくれ」

「おう、何か手伝えることあったら言ってくれよ」

「ありがとうよ」

 人の良さそうな中年男性に対し、エリクも軽く会釈をしておく。彼が小走りに野営地へ向かう姿を見送り、欠伸をしていたカイに視線を戻した。

「カイ、ありがとう。馬車を手配してくれて」

「何だ、信用してなかったのか?」

「え、いや、そういうわけじゃないよ」

 いじけたように唇を尖らせたカイが、軽そうな外見や口調にそぐわず、意外にも真面目な人物であることは既に承知済みだ。同乗を頼んだ馬車の持ち主も、あの通り真っ当な人物を選んでくれた。城郭都市では少々疲労が溜まったものの、彼に会えたことは幸運だったのかもしれない。

「けど、本当に良かったのかい。聖都まで一緒に行くなんて」

「あの狂ったご令嬢に監禁されるより断然マシだ。で、結局お前ら何しに行くの?」

 狂ったご令嬢と称されたオドレイが少々不憫……いや妥当なのだろうか。何とも言えない表情でエリクは受け流し、彼に今後の予定を告げる。

「えっと……取り敢えず僕は王立図書館に寄ってから、ニコを王宮に連れて行かなきゃいけなくて」

「は? 王宮?」

 エリクは苦笑しつつ頷いた。

 皇太子暗殺未遂事件については、あまり人に言いふらさないようにとフランツから注意されている。そのため詳しい事情を明かすことは出来なかったが、ニコを狙う魔法に対処するためと、せっかく同行してくれたカイに何も教えないわけにもいかないだろう。

「王宮が、ニコとよく似た特徴を持つ人を探してるんだって」

「特徴っつーと……耳か?」

「うん。耳が尖っていて、小柄な人」

「正しくニコじゃねーか」

 事件の内容は伏せているとはいえ、はっきりと断言されると少しばかり来るものがある。

 カイから見ても、やはりニコの容姿は珍しいようだ。ちなみに先刻エリクがオドレイと話している間、彼が悪戯にニコの耳を触っては噴水に無理やり顔を浸されている光景は、視界の端で捉えていた。

「しっかし、さっきエンフィールド卿の名前も出てたよな? 随分と仰々しい召喚命令じゃあ……」

「ああ、公爵家のフランツさんと僕の幼馴染が婚約したみたいで、偶々町に来てたんだ。それで」

「えっ。見初められたってことか。やるねぇー! 玉の輿だ」

 カイのからかうような声音に、エリクは自嘲気味に頬を引き攣らせる。実を言うとセリアの婚約を初めて聞いたとき、エリクも「玉の輿」という言葉が頭を過った。が、彼女とフランツの噛み合わない仲を見ていると、そんな野次馬根性丸出しの祝辞を述べたが最期、平手ではなく拳で顔面を殴られそうな気がしたものだ。

……全部穏やかに収まってくれればいいんだけどな……」

「んぁ?」

 ニコの嫌疑も晴れてほしいし、セリアの婚約も上手く行ってほしいし、先生の容態も良くなってほしい。──欲張りにもほどがある。だが今のところエリクの頭を悩ませているのはこの三つで間違いはなく、特にニコに関しては最も穏便に済ませたい一件だった。

(本当にニコが北方諸国連合の刺客だったら、大変なことになる)

 これからもニコが口封じのために狙われ続ける可能性は勿論、南北イナムスに更なる軋轢を生むばかりか、最悪の場合は戦争に至ることもあるだろう。

 

 ──エリク。ニコを隠せ。

 

 本当に、これで良かったのだろうか。先生の願い通り、学び舎に彼女を隠しておけば──いいや、オースターロでの一件でフランツに目を付けられた以上、それは叶わないと諦めたではないか。

 やるせない思いがエリクを襲う。今の彼に許されているのは、ニコの無実を祈ることだけ。今朝の魔法はただの悪戯で、偶然ニコが標的になってしまっただけで、北イナムスとは何の関係もないと、自身に言い聞かせることだった。

「おい、顔色悪いぞ。酔ったか?」

「え? いや、大丈夫だよ」

「そうか。ま、聖都まで長いし、のんびり行こうぜ」

 後頭部で両手を組み、カイはにかっと笑う。彼の明るい口調に元気づけられ、エリクも口角を上げて応じ──腹部を締め付けられては呻く。見下ろせば、ニコの両腕がそこに回されていた。抱き枕状態になったエリクが固まっていると、その様を見ていたカイが生温い笑みを浮かべる。

……なあエリク。実際のところどうなんだ」

「え、何が?」

「ニコだよっ。そんだけべったりされてて何とも思わねーの?」

「べったり……」

 されているだろうか。ニコにとって自分が、意思疎通を図りやすい相手として見なされている自覚はある。だがそれは先生でも代役を務めることは可能で、昏睡状態になる前はきっとそうだったのだろう。バルドルという名前もしっかり伝わっていたことから、その辺りは容易に想像が付く。

「別に、ニコは僕じゃなくとも古代語を喋れたら誰でも良いような……」

……えー。じゃあ? これから先? 腹の出たハゲ散らかした気色悪い学者にニコが懐いたらどうするよ?」

 望むような返答ではなかったのか、つまらなさそうにカイが問う。それに対しエリクは笑いながら、

「それは嫌だな」

 自分でも驚くほど低い声で答えていた。「えっ」とカイが頬を引き攣らせていることに気付き、慌てて首を振る。

「あ、いや、その。絵面的にね」

……おうおう、良いぞ。俺は安心した。分かってる。分かってるぞ」

「待った、ちょっと待った、今の例えは極端すぎる」

「あーはいはい、その格好で言っても説得力皆無だけど、そういうことにしておこうな」

 こんな会話をしている最中でも、ニコはずっとしがみついたまま寝息を立てている。安心しきった寝顔を見詰めること数秒、エリクは唸りながら頬を掻いたのだった。

 

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