16.


 伯爵家の令嬢オドレイは、木陰に用意された椅子に腰かけ、気持ちよさそうに息を吸い込む。光沢のある銀朱の髪はたっぷりとしていて美しく、同色の瞳も穏やかな人柄を映し出しているかのように静か。その足元で拘束されたカイが転がっていることなどつい忘れてしまうほど、彼女は優雅に紅茶を啜った。

 宿屋から拝借した丸テーブルを挟み、エリクも勧められた紅茶に口をつける。

……わ、美味しいですね」

「ふふ、私のお気に入りの茶葉なんです。お口に合って良かったわ」

 あまり紅茶には詳しくないが──これは花の香りづけがされているのだろうか。それは決して甘ったるいものではなく、陽射しの下で味わうことを前提としたような、爽やかな飲み口をもたらす。残念なことに、茶に関しては徹夜明けの気付けぐらいにしか飲んでこなかったが、そんな薬じみた飲み方以外にもいろいろと試してみても良いかもしれない。

「ああ、それと朝食がまだとお伺いしたから、他にも用意させましたのよ」

「えっ」

 オドレイが真っ白な扇子を軽く振れば、侍女が音もなく焼き菓子をテーブル上に置いて行く。エリクの隣では、外套を外したニコが目を真ん丸にして菓子を凝視している。ちら、と窺えば、オドレイがにこやかに「どうぞ」と促した。許可を得たニコはそろそろとクッキーを摘まみ、大人しくかじり始めた。

「す、すみません。お菓子まで」

「いいんですのよ。我が領地で大変な目に遭われたのです。せめてものお詫びをさせてくださいな。それと」

 オドレイは笑顔を維持したまま、足元で気絶しているカイを見遣る。手綱のごとく縄を引き、彼女は何故かうっとりとした表情で語った。

「あなた方のおかげで盗賊さんとも会えました。お礼を申し上げたいくらい」

「え、ええと……カイが、その……首飾りを盗んだって……」

「ああ! 順を追ってお話し致しますわ。まずは、そうですね。先程の騒動についてが先かしら」

 照れたように小首を傾げる仕草は、無邪気な少女を彷彿とさせるというのに。可哀想だが今は、カイのことを見ないようにしておく。

 空腹なニコが黙々とクッキーを食べる最中、オドレイはエリクの前に羊皮紙を差し出した。見ればそこには、宿屋の扉に描かれていた魔法陣がそっくり写されている。文字はところどころ抜けているが、凡その形は合致しているだろう。

「これ、宿屋にあった……」

「ええ、扉を処分する前に写しを取っておきましたの。この魔法陣、盗賊さんが処理してくださったのでしょうけど……エリクさま、こちらに心当たりは?」

……いいえ。魔法陣は直接見るのも初めてで」

「そうでしょうね……けれど状況を聞くに、魔法陣は彼女を狙って仕掛けられた、と見て間違いなさそうですの」

 オドレイは先程より数段落ち着き払った瞳で告げ、ニコの尖った耳に目を留める。瑠璃色の瞳がそれに気付いて持ち上がれば、オドレイはふと微笑んで見せた。

 

──エンフィールド卿から書簡が届いてますの。王宮の一件で、関与の可能性がある者を聖都へ移送すると」

 

「!」

「傍には隻腕の青年を付けたとも。あなた方のことですわね」

 それまで微動だにしなかった侍従が、オドレイの発言を咎めるように耳打ちする。しかし彼女は「大丈夫よ」と頭を振り、少しばかり身構えてしまったエリクに対しても笑みを向けた。

「この件に関してはあまり人に話してはいけないのだけど、当事者ならば問題ないでしょう。ね、エリクさま」

……え、と。はい。オドレイ様の仰った通り、僕らはその件で聖都へ上がる途中です」

 耳の尖った少女と隻腕の青年、なんて組み合わせは他にそうないだろう。そもそも本当のことなのでエリクは素直に頷いた。

 ただ、あくまで皇太子の件については「嫌疑が掛かった状態」であることを告げ、まだニコが犯人であるとは決まっていないと添えておいた。

「ふふ、承知しております。……ニコさまのことを心から気遣っていらっしゃるのね」

 羨ましい、と何故だか握った縄をぎりぎりと握り締めたオドレイに、エリクは頬を引き攣らせる。だが彼女はすぐに力を抜き、溜息交じりにフランツの書簡に関して口を開いた。

「卿からの書簡にも記されていましたわ。対象には手出し無用、と。でも……その対象が第三者に狙われたことは事実。少々、面倒なことになりそうですね」

……と、いうと?」

「これは私の憶測に過ぎませんが、ニコさまの疑いが確かであると仮定した上で──先程の魔法が単なる悪戯ではなく、宿屋にいたニコさまを狙ったものならば」

 オドレイはそう前置き、つと視線を寄越す。二つの事柄を結び付け、導かれる答えは──彼女の言わんとしていることを察し、エリクはハッと目を見開いた。

 

 皇太子暗殺未遂事件に、北イナムスが絡んでいる。

 

 魔法を行使できる者は南イナムス、つまりティール聖王国には殆ど存在しない。カイの話では領内北部で見掛けることもあると言うが、それは例外と捉えるべきだろう。

 すなわちオドレイは、暗殺者のニコから足がつかぬよう、黒幕である北方諸国連合が彼女を始末しようとしたのではないか──と推測を立てているのだ。

 有り得ない、と一蹴できる話ではなかった。

 何せ北方諸国連合は、過去に何度もティール聖王国に戦を仕掛けている。ここ暫くは幸運にも穏やかな日々が続いているものの、双方の関係は決して良好と言えるものではない。その証拠に、南北を隔てる大山脈手前では北イナムスの急襲に備え、ティール聖王国軍が三つもの砦を敷いて常駐している。そんな相手が刺客を送り込み、皇太子暗殺を企てていても、何ら不思議ではなかった。

……今朝の魔法はすぐさま死に至るようなものではなさそうでしたけれど、下手をすれば大怪我を負っていたことでしょう。ニコさまを害そうとしたことは確かではなくて?」

「それは……」

 オドレイの言う通り、ニコは迫りくる蝶に驚いて二階から飛び降りた。あれが彼女でなければ、骨折ぐらいしていたかもしれない。

(でも、それが本当なら)

 湧き出た不安と共に隣を見遣れば、ニコが羊皮紙に描かれた魔法陣をぼんやりと見詰めている。それに見覚えがあるのかどうか、彼女の表情だけでは窺い知ることは出来ない。ニコに、皇太子を殺そうとした過去があるのかどうかも、本人の口からは知ることが叶わない。

 エリクは真実がどうであろうと、彼女を聖都に連れて行くことしか許されていなかった。何せ、彼がもし「暗殺に関わったのか」と、拙い古代語を繋ぎ合わせてニコに尋ねたら──。

 

(そこで頷かれでもしたら、ニコとはもう……)

 

 もう、何だと言うのだろう?

 不意に起こった感情に、エリクの紅緋の瞳に戸惑いが浮かんだ。

──そーいうことなら、俺が一緒に行くしかないな!?」

「え?」

 突然、それまで地べたに転がされていたカイが、がばっと起き上がる。そしてその拍子にオドレイの肘が彼の額にぶつかり、両者が痛みに悶えること数秒。一足先に立ち直ったカイは、芋虫のようにエリクの傍へと這い寄ってきた。

「な、な、エリク。ニコが魔法で狙われてるってんなら、俺が対処してやるぞ」

「え……それは、ありがたい、けど……?」

「ああーっ心配するな、俺は今の不穏な話は殆ど理解してないし、するつもりがない! とにかく! お願いだから俺をこのイかれたご令嬢の元に置いて行かないで!!」

 どういうことかとエリクが呆けたのも束の間、向かい側から心外だと言わんばかりにオドレイが身を乗り出す。

「まあ! イかれたご令嬢とは私のこと? ちょっと世俗の言葉に疎いのですけれど、罵倒されたことはよく分かりましてよ、盗賊さん」

「ひぇッ、助けてエリク!!」

 カイは顔を青褪めさせ、急いでエリクとニコの間に入り込んできた。全く話が読めず、エリクは泣き喚く彼を取り敢えず宥めておく。それを真似してニコも彼の頭をごりごりと撫でては悲鳴が上がったところで、オドレイが意気込んだように立ち上がった。

「どうしてそんなことを仰るの、盗賊さん! あの夜、落ち込んだ私の元に颯爽と現れては首飾りの話を聞いてくださったではないの! はあ、あんなに情熱的な宵を過ごした仲というのに……!」

 エリクはぎょっとした。宥めていた手を思わず万歳して放せば、カイは「誤解だ!!」と死にそうな顔で叫んだのだった。

 

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