15.


 宿屋を襲った大量の蝶は、カイが扉の魔法陣をナイフで削ったことをきっかけに、全て死に絶えた。不運にもその死骸で溢れてしまった宿屋とその周辺は、近隣の住民も手伝ってくれたおかげで殆ど掃除されつつある。だが、一般的に見た目が良いとされる蝶であっても、これほどの数が無残にも散っている光景は心臓に悪かった。

『後ほど領主さまが来られますので、詳しい事情をお話していただけますか?』

 住民からの通報を受けた伯爵家はすぐに使いの者を寄越し、宿泊客の中で最も被害に遭ったであろうエリクにそう尋ねてきた。図らずも伯爵家の人間と顔を合わせることとなった彼は、隣でそわっとしているカイを気にしつつも頷いたのだった。

 

 ▽▽▽

 

 宿屋のすぐ傍にある木陰にて、エリクの外套にすっぽりと包まって眠っていたニコは、先程いきなり目覚めては近くの井戸へ向かい、全力で口を濯ぎ始めた。まだ口内に蝶の残骸があったのだろう。彼女にしては何とも機敏な動きに、エリクは苦笑しつつもホッとした。

──ま、自分の口に虫が突進してくるなんざトラウマだわな。俺なら数日は夢に出てくる」

「はは……そうだ、カイ。さっきはありがとう、魔法陣のことも、ニコも」

「どういたしまして。しかしお前、あれだよな。焦ると人が変わるな」

 カイは疲れた様子で木に凭れ、きょとんとしているエリクに向かって告げた。

「噴水にあの嬢ちゃん突き落とすわ、血相変えて『運べ!!』って言うわ、俺ちょっとビビっちゃったからね」

「ご、ごめん。必死で」

 そんなにきつい言い方だっただろうか。いや、顔は強張っていたから、そういう風に見えていたのかもしれない。エリクは頬を掻きつつ、ずっと気になっていたことを小声で尋ねてみた。

「ところでカイ、どうして魔法の対処法を知ってたんだい? 南イナムスじゃ魔法なんて……」

「あー……各地を旅してりゃあ、魔法にも遭遇するさ。ティール領内でも北方に行けば、意外と魔法も馴染みがあったりするもんだ」

 そうなのか、とエリクは素直に驚いた。古い書物には「ティール聖王国に魔法は存在しない」と記されているが、百聞は一見に如かずとはこのことだろう。カイ曰く、大山脈に近付けば近付くほど、魔法を目にする機会がわずかだが増えるとのこと。彼自身も魔法を何度か目の当たりにし、そこで対処法も教えてもらったという。

「魔法陣を崩すなら中心を思い切り抉ることだ。端っこをちょっと削っただけじゃ、あんまり効果は無いぞ」

……陣の中央でなければいけない?」

「ああ。イナムスの精霊は“円”を好む。精霊の世界とやらから円形の魔法陣をくぐることで、俺たちの前に顕現するんだとさ」

 つまり魔法陣とは「術に行使される精霊の通り道」だとカイは簡潔に話してくれた。こちらに呼び出された精霊は、魔法使いの指示──すなわち魔法陣に描かれた呪詛を受けて、炎や水を操るようになるらしい。

「その呼び出す精霊の種類でまた術が異なるんだが──ってこんなこと話してもしゃーねぇか」

「いや、君の説明は分かりやすくて興味深いよ! 僕は魔法に関してはさっぱりだから」

 思わず瞳を輝かせれば、呆けたカイがすぐに自慢げな顔をして胸を張る。長い紺碧の前髪をさらりと気障ったらしく払い、堂々と脚まで交差させてしまう。分かりやすい人だ。

「ま、この俺に掛かれば簡単に魔法もあしらえちゃうんだなぁ。もっと俺を敬え──」

「キタナイ!」

「汚い!?」

 そこへ幾分かすっきりとした面持ちのニコが駆け寄ってきた。エリクの外套をぐるぐると体に巻きつけたまま、カイを見上げては再び「キタナイ」と言う。……その表情には特に嫌悪などは見られない。これは多分。

「ああ……キタナイ、って名前だと思われてるかも……」

「はあ!? そん、そんな勘違いあるか!? おいニコ、俺はキタナイじゃなくてカイだ、覚えろ!」

「? キタナイ」

「嫌だァ! 何で呼ばれるたびにカタコトで汚物扱いされなきゃ駄目なんだよ!」

 エリクは「まぁまぁ」と荒ぶるカイを宥め、先程から何か言いたげなニコの顔を覗き込む。

「ニコ? どうし……」

「イーフロー……アル……アリ、ガト」

 唐突に告げられた言葉に、エリクとカイは思わず顔を見合わせる。

 もしやニコは、蝶の群れを追い払ったことについて礼を述べているのだろうか。だから協力してくれたカイにもずっと呼び掛けていたのかもしれない。まあ肝心の名前は、ひどい間違い方をしているわけだが。

 ……何だか意外、なんて失礼かもしれないけれど。エリクはくすぐったいような、それでいて暖かな気持ちで笑みを返す。

「? アリガト……?」

 何度も発音を変えてお礼を伝えてくるニコの頭を撫で、彼は努めて明るく応えた。

「合ってるよ、どういたしまして。ニコ」

「ん」

「うえっ」

 エリクの笑顔を確認するや否や、ニコはひしっと抱き着いてくる。これにはエリクも驚き、咄嗟にカイに助けを求めてみたが、「あ、どうぞごゆっくり」と見当違いな気遣いをされてしまった。ニヤけながら背まで向けられ、エリクは困り果てた顔で再びニコを見下ろす。

 彼女は両手を背中に伸ばし、エリクの胸に顔を押し付けてじっとしている。やはり力が強いおかげで肺の辺りがちょっと苦しいが、引っぺがすことも出来ずにエリクは彼女のつむじを見詰めた。

 

──エリクッ』

 

 大量の蝶に襲われたとき、ニコは殆ど悲鳴に近い声を上げた。

 あれは単純に多すぎる蝶が気持ち悪かったのか、はたまた魔法に因るものだと分かっていたがゆえの恐怖だったのだろうか。その度合いは、二階の部屋までやって来た大群に慄き、思わず窓から飛び降りてしまうほど。

 ……そんな彼女の行動を顧みて初めて、エリクより遥かに優れた身体能力を持っていても、今回のように成す術がない場合もあるのだと気付く。そして己の言葉で助けを求めることが難しいニコが、最初に紡ぐ言葉は──エリクの名前なのだと。

……ニコ、イール・ラハト」

「!」

「大丈夫だよ」

 華奢な背中を摩ってやると、力んでいた腕が緩む。伏せられていた瑠璃色の瞳が持ち上がり、エリクはその少しばかり湿った頬をそっと撫でた。

「領主様との話が終わったら、ご飯食べようか」

……ゴハ」

「ああ、えーっと、フィスト・オィツ」

 朝食と聞いて急に元気が出たのか、こくこくと頷いたニコに笑う。表情こそ変わらないが、彼女の気持ちは仕草の溌剌さで読み取れる。今朝、夢に魘されていたときと比べれば、もうすっかり体調も戻っていると見て良いだろう。

「カイ、君も一緒にどうかな」

「は、俺?」

「うん」

 何だかんだで、やはりカイは悪人ではなさそうだった。首飾りの一件については、この後で詳しく聞きたいところだが──ともかく、エリクとニコを咄嗟に助けてくれたのは事実である。それに、南イナムスでは珍しい魔法に関する知識も豊富のようなので、エリクはその話もぜひ聞いてみたかった。

「僕らすぐに聖都に行かなきゃいけないし、せっかくだから──」

 

「まあ! こんにちは、盗賊さん」

 

 え、と二人は後ろを振り返る。一拍遅れてニコも顔を覗かせる。三人が見遣った先には、侍従が差す日傘の下で優雅に微笑む女性がいた。銀朱の髪はくるくると巻かれ、涼やかな半袖のドレスからはほっそりとした白い腕が伸びる。まさに「お嬢様」という呼ぶに相応しい人物の登場に、慌てふためいたのはカイだった。

「げッ……!! エリク、メシの誘いはまた今度で……」

「盗賊さん。もう逃がしませんわ──手荒な真似を許してちょうだいね」

 彼女が申し訳なさそうに首を傾げた直後、いつの間にかカイの背後に回っていた騎士が手刀を叩き込む。そうして白目を剥いて昏倒した彼を一瞥し、少女は何事もなかったかのようにエリクとニコに向かってお辞儀をしたのだった。

「ごめんあそばせ。私は領主代理で参りました、オドレイと申します。早速、お話を伺ってもよろしいかしら」

 

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