14.


 エリクは爽やかな朝を迎えると共に、悲鳴を噛み殺した。

 昨夜は疲れ果てたニコに寝台を譲り、瞬時に眠った彼女に笑いつつ自身も長椅子に横になった。本音を言うならば、年頃の少女であるニコとは別室にしたかったのだが、言葉がすんなりと通じない彼女を一人にすることに、少々気が引けたのも事実。一晩だけだし、とニコに「同室でも良いか」という旨の確認は取った。無論、彼女はこちらの気持ちを知らず二つ返事で了承してくれたわけだが。

──な、なにゆえ……!?」

 エリクは頬を引き攣らせ、自身の腹上で死んだように眠るニコを見下ろした。目覚める直前、それまで深い眠りに就いていたのに、急に腹が重くなったような気がしたのはこのせいだ。

 干された洗濯物のごとく脱力している彼女の足元には、寝台に用意されていたはずの毛布が。少し離れたところにはニコの外套が。彼女が夜中、ずるずると寝台から這い出てはエリクの元へ来たのだということを、その痕跡から察した。だからといって彼の腹を枕にして、ほぼ床に座るような形で夜を明かすなんて──寝台を譲った意味がなかった上、結果的にエリクの方が快適な眠りを得てしまっていた。

「ニコ、起きてくれ」

 取り敢えずエリクは上体をそうっと起こしつつ、ニコの背中を摩る。

 そのとき彼は、ニコがどこか苦しげに首を押さえていることに気付いた。眉は微かに顰められ、穏やかだった呼吸が浅くなる。

 ──魘されている?

 何か悪い夢でも見ているのだろうか。エリクは彼女の手を掴み、首から離れさせる。そして学び舎の子どもたちにやるように、静かに頭を撫でてみた。その効果は充分にあったようで、次第に眉間の皺が解れていき、詰まっていた息が段々と滑らかになる。

 やがて瑠璃色の瞳が開かれたとき、瞳孔の奥に潜む暗い光は、エリクをそこに映すことによってすぐに消え去った。

……エリク」

「おはよう、ニコ。……大丈夫かい?」

……」

 億劫な動きで体を起こしたニコは、そのまま頭を撫でる彼の手を甘受した。

 どうやら寝起きは最悪だったようなので、エリクは彼女に飲み水でも持って来ようかと思い立つ。部屋のカーテンを開け放ち、外の光を存分に取り込みつつ、彼はニコを長椅子で休ませたまま廊下へと出たのだった。

 

 宿屋の人間が誰かいれば、水差しを持って来て欲しいと頼めるのだが……まだ時間が早かったのだろうか。それらしい人を見つけることは出来ない。

 仕方なしに一階の受付を訪ねることを決め、階段を下りたとき。

「きゃー!? 何よこれ!?」

 静寂を突き破ったのは、昨夜受付で手続きをしてくれた女性の声だった。エリクはぎょっとして、恐る恐る玄関ホールを覗き込む。するとそこには信じられない光景が広がっていた。

「う……!?」

 外へ続く扉から、雪崩のように押し寄せる──蝶の大群。

 色とりどりの羽は個々に見れば美しいのだろうが、こうも大量に蠢いていると大変グロテスクに見えてしまう。すぐ傍まで漂ってきた蝶をやんわりと払いつつ、エリクは大混乱中の女性の元へ向った。

「あ、あのっ、これは一体何が」

「し、知らないわよぉ!! 掃除しようと思って扉開けたら、急に蝶が……! もう、こっち寄らないでよ! 誰かどうにかして!」

 女性が近くで箒を振り回し、危うく直撃しそうになったエリクは咄嗟に屈む。視界が五彩で埋め尽くされる中、とにかくこの大群を外へ追い出す方法を考えた。

 そもそもどうしてこんなにも沢山の蝶が宿屋に入って来たのだろう。昆虫の大量発生は各地で確認される事象で、それ自体はそう珍しいことでもない。しかしその原因は季節の変わり目だったり、大きな寒暖差や異常気象によって起きる場合が殆どだ。ここ最近は穏やかな天候が続いていたし、例年と変わらぬ様子だったのに。

 ……つまりこれは人為的なもの、だったりするのだろうか?

 エリクは怪訝な面持ちで玄関ホールを見渡そうとしたが、無理だった。壁にも天井にも窓にも、絨毯の如く蝶が集合している。これでは落ち着いて手がかりを探すことも出来ない。彼は仕方なく、未だ箒で暴れている女性に声を掛けることにした。

「すみません、扉に何か塗られたりしてませんでしたかっ? 甘い匂いのする液体とか」

「へ!? そんなもの──あ、でも液体じゃないけど、悪戯はされて……」

「悪戯?」 

 ふと考え込むように動きを止めた彼女だったが、すぐさま箒で群れを払い、扉へと向かう。エリクもその後に続き、やがて見えてきた扉の外へ二人して転がり出た。

 奇妙なことに、他の家屋に蝶が群がっている様子はなかった。不自然にも、騒がしいのはこの宿屋だけ。近隣に住む者たちは、異常事態にざわざわと屋内から様子を窺っていた。

「これよ、昨日の夜はなかったのに」

 女性の声に振り向けば、不思議な紋様が刻まれた扉がそこに現れる。何重もの円形と小さな文字が並ぶ、これは。

 

……魔法陣……?」

 

 寸分の狂いもない正円に触れ、エリクは眉を顰めた。実際に見たことはなかったが、書物に記された形と酷似している他、焼き跡のような刻まれ方も記述通りだ。この魔法陣が、蝶を呼び寄せている元凶だろうか。だが何故? この宿屋に蝶を集めて一体何を? これが単なる悪戯ならば、非常に迷惑かつ悪趣味だ。

……。これ、削ってみましょう。ナイフはありますか?」

「け、削るのね。持ってくるわ」

 とにかく、こんな状態では宿屋も商売上がったりである。魔法陣をナイフで削ってみるなり、扉ごと壊すのも視野に入れるべきか。それでどうにもならなかったら弁償になるわけだが──。

 

──エリクッ」

 

 エリクが煩わしげに視界を払ったときだった。

 頭上が陰り、苦しげな声が降ってくる。咄嗟に顔を上げれば、蝶の塊が勢いよく落ちてきた。異常に密集した蝶の群れは、まるで蜜を求めるが如く羽を動かす。目の前に転がったソレに慄いたのも束の間、よく見ると明色の隙間から金髪が見え隠れしている。

「え……ニコ!?」

「うーっ」

 ニコはじたばたと蝶から逃れようともがいているが、まるで霧でも相手にしているかのように手応えが見られない。暫し戸惑っていたエリクが我に返り、慌てて彼女の傍に屈んでは、執拗に纏わりつく蝶を左手で払い飛ばした。ようやくニコの顔が見えるようになったところで、彼は目を見開く。

 ──咳き込んだ彼女の口から、潰れた蝶の死骸が吐き出されたのだ。

「え、食べ……!? ニコ、口閉じて、ええと、クレイゾ!」

 咄嗟に彼女の手を取り、口を塞ぐよう古代語で呼びかける。何とか聞き取ってくれたのか、ニコが片手で口元を覆った。エリクはそのまま彼女を立たせ、急いで広場の噴水へと向かう。

 そして少々手荒いが、心の中で謝りつつ彼女を噴水の中へと押し込んだ。どぼん、と彼女の体が水中へ沈めば、蝶がぶわりと宙へと逃げていく。

「おいおいおいエリク!? 何やってんだお前!?」

「! カイ」

 するとそこへ駆けつけたのは、広場で落ち合う約束をしていたカイだった。エリクがニコを水の中へぶち込む光景を見て、大慌てでここまで来たようだ。

「喧嘩か? 意外と容赦ねえんだな……」

「い、いや、ちょっと大変なことになってて、蝶が……」

「蝶?」

 彼からドン引きされていることに気付き、エリクは頬を引き攣らせて弁明しようとしたが、噴水の中からニコが出てきたことで意識を逸らす。

「ニコっ、大丈夫かい!?」

「げほッ」

「!」

 ずぶ濡れの彼女の元へ、またもや蝶が群がろうとする気配を察し、エリクは自らも噴水の中へと飛び込む。身を縮こまらせたニコを抱き寄せ、顔を自身の胸に押し付けた。ニコを蝶から守るように背を丸めれば、すぐに視界が蝶で埋まる。

「ぎゃあー!? 何だこれッ、おま、魔法か!? エリク、魔法陣はどこだ!」

「え……! や、宿屋の扉にそれらしいものがあった!」

「ちょっと我慢しとけ!」

 カイの予想外な言動に思わず呆けたが、まだ安心はできない。左腕で抱き寄せたニコを見下ろせば、何羽もの蝶が彼女の頬に止まっている。

 何故だか分からないが、先程からこれらの蝶は──自身をニコに食わせようとしているような、不気味な行動を取るのだ。エリクにはさほど興味を示さないことから、この魔法がニコを狙って仕掛けられたものだということは、もはや明白だろう。

 ぐっと腕に力を込め、エリクが彼女の口元を塞ぐよう抱きすくめたときだ。

──!」

 ふ、と視界が開ける。かと思えば蝶が次々と水面へと落ち、羽や捥げた足を散らせていく。突如として死に絶えた残骸にぞっと背筋が震え、エリクは恐る恐る噴水の縁へと移動した。

 ニコを先に外へ出してやると、彼女はぐったりとその場に倒れてしまう。

「ニコ……!」

「おーい、エリク! 止まったか!?」

「カイ! 彼女を運んでくれ、頼む!」

 恐らく魔法陣をどうにかしてくれたであろうカイに、エリクは礼を述べる余裕もなく頼みごとを告げる。気を失ったニコは、なおも苦悶の表情を浮かべたままだった。

 

>>

back

inserted by FC2 system