10.


 蒼穹の瞳を持つ獣の介入によって、オースターロは不穏な空気を拭えぬまま夜明けを迎えた。自警団によって回収された獣の死骸は、ちょうど町を訪れていたエンフィールド公爵家嫡男フランツ=エンフィールドの管轄下に置かれることとなる。未だ強い腐臭を放つソレを、町長はすぐに火葬した方がよいと進言したが、フランツは笑顔で頭を振ったのだ。

『聖都に持ち帰り、解剖を頼んでみます。あの奇怪な体は、もしかすると──魔法による変異かもしれませんから』

 件の獣は一見して狼に似た姿だが、その四本の脚は猿のように関節が柔らかく、指も細く分かれているという。死骸の回収に当たった者たちは皆揃って不気味がり、オースターロという神聖な祭りの最中であることも忘れ「呪いだ」と騒ぎ立てる始末。だがそれほど獣の姿は奇怪かつ、人々の不安を煽るものだった。

 そして何より、獣は演劇用の舞台を半壊させた。あれが普通の狼だったなら精々、舞台上を荒らす程度だっただろう。あの獣が、骨だろうが木だろうが関係なしに噛み砕く強靭な顎を持っていることは──八年前、右腕を食い千切られたエリクが証明している。もしもまだ、このティール聖王国に同じ種の獣が潜んでいるとなれば、事は既に深刻な段階に達しているだろう。

 ゆえに事件の顛末を聖王へ報告し、早めに対応をすべきだというフランツの言葉を、町長は青褪めた顔で了承したのだった。

 

 ▽▽▽

 

──ああ、エリク殿。腕の痛みは引きましたか?」

「フランツさん……!」

 東の空が白み始めた頃。静まり返った町の広場で、エリクはずっと眠りっぱなしのニコと共に待機していた。二人の肩にはフランツが用意してくれた外套がそれぞれ掛けられ、彼の気遣いに感謝したいのは山々なのだが……エリクはその表情に焦りを浮かべつつ立ち上がった。

「さっきの話、どういうことですか」

 言いつつ、ベンチに寝転がっているニコを一瞥する。数刻前、彼女が凶暴な獣を玩具のごとく捻じ伏せたことなど、穏やかな寝息を立てる姿からは想像もつかない。しかし、赤色のローブに付着した大きな染みが、あの光景が実際に起きたことなのだと伝えてくる。

 そして、フランツが告げた話もまた。

「ふむ、どういうこと……と聞かれると、そのままなのですが」

「だ、だって──ニコが、“皇太子を襲った暗殺者”だなんて」

 そう、彼から聞かされた話というのは、ティール聖王国の次期聖王すなわち皇太子の暗殺未遂事件についてだったのだ。

 遡ること数週間前、王宮で暮らすアーネスト皇太子の元に一人の暗殺者が送られ、危うく命を落としかけるという事態に陥った。皇太子自身が武術に優れていたこと、そして運よく近衛が駆けつけたことで事なきを得たが、肝心の暗殺者は忽然と姿を消した。

 アーネストと近衛騎士の証言では、刺客は「小柄な体型」で「耳が尖っていたように見えた」とのこと。事件が起きたのが深夜だったおかげで、髪の色や顔立ちまでは確認できなかったが──それと酷似した特徴を持ち、並外れた身体能力を誇示した者が、ここにいる。

「彼女は……殿下が証言された体格や耳の形と合致する上に、暗殺に必要な力も備わっているように見えます。確定したわけではありませんが、誰にでも当てはまる特徴ではない。エリク殿もそれはお分かりですね?」

……は、い。ですが……僕にはとても、信じられません……」

 確かにニコは成人男性の体を片手で支えられるほど力があり、棒切れにも等しい模造剣で獣を叩きのめした。フランツの言う暗殺者とやらと同じ、尖った耳も持っている。だからと言って、彼女に皇太子暗殺などという大それた任を遂行できるのかという疑問もある。学び舎に来てから終始ぼんやりとしている他、エリクや子どもたちにも何一つ危害を加えていない。それに。

「あ、あの、フランツさん。暗殺者は無傷で逃亡したんですか? “あの”皇太子殿下が撃退されたのなら、傷の一つや二つ負ったのでは……」

「おや、さすがエリク殿。殿下のことをご存知でしたか」

 アーネスト皇太子は──王家唯一の“共鳴者”として知られている。二千年前、原初の巨人と大精霊が人々に授け、今もなお聖都に保管されているという秘宝『ミグス』。皇太子は“黎明の使徒”と同様、ミグスに触れることで力を手に入れた数少ない人物だ。その実態までは知らずとも、神話の通りならばミグスに選ばれた人間が途方もない力を発揮することは容易く推測できる。ゆえに暗殺者も、皇太子から手痛い反撃を食らい、止む無く撤退をしたのではないだろうか──? そんなエリクの考えは、やはり当たっていたらしい。

「確かに暗殺者は、殿下の剣を受けています。胸部を大きく切り付け、床には点々と血が残っていた」

「! それなら……!」

 胸部。エリクはすぐに心当たりを口にしようとして、慌てて唇を引き結ぶ。

……ええと、き、傷は、なかったと、思います」

 ──何で知ってるんだ、って聞かれたらどうしよう。

 偶然、事故にも等しい形でニコの鎖骨を拝んでしまったエリクは、そこには触れずに傷の有無を告げた。とにかく暗殺者が胸部に傷を受けたというなら、どこも負傷していない彼女は犯人候補から外れるはずだから。

「ええ、セリアも目立った外傷はないと言っていました。愛しい婚約者の証言ですので、そこは信じましょう」

 幸い、フランツは深く追及せずにその事実を容認した。何だかこっぱずかしい台詞が付いて来たが、エリクもそこは追及せず。

「ですが可能性はゼロと言い切れません。それに彼女は暗殺者でなくとも、一度王宮へ来て頂きたくてね」

「え……!?」

「そこでご相談です。エリク殿」

 にこりと笑ったフランツは、手のひらでニコを示しつつ、相談とやらの内容を告げた。

「貴方が彼女を聖都に連れて来てください」

……僕が? フランツさんが、ニコを連行するわけじゃなく……?」

「はい。暗殺者としてひっ捕らえようにも、彼女の力は少々手に余ります。不審に思われたら最後、私の兵が獣と同様に嬲られかねません」

 言い方は酷いが、フランツの懸念は尤もだろう。いくらニコが素直な性格だからといって、大人しく拘束を受けるはずがない。殺すまでは行かずとも、フランツたちに被害が及ぶ可能性は十分にある。その点、不思議と懐かれているエリクが彼女を連れて行けば、暴力沙汰は回避できるだろう、と。

「ご安心を。聖都に着いてすぐ拘束などと横暴な真似は致しません。あくまで任意の参上をお願いしたい」

……ニコを、暗殺者だと決めつけたわけでは、ないんですね?」

「ええ。嫌疑が掛かった状態ではありますが」

 そこで会話は区切りを迎え、エリクは静かに息を吐きながら俯いた。先生の八年越しの帰還から始まり、蒼穹の瞳を持つ獣の再来、皇太子の暗殺未遂事件──いろいろと頭の処理が追い付いておらず、我儘だがちょっと寝て落ち着きたいのが本音だった。しかしフランツはすぐにオースターロで起きた事件を報告するために、日が完全に昇るまでには聖都へ向かいたいと言う。要はニコの保護者として、さっさとここで返答をしなければならないのだ。

 

 ──エリク。ニコを隠せ。

 

 先生の伝言が過る。たったそれだけ。ニコの詳しい素性について、エリクは何も知らされていない。暗殺者の嫌疑が掛かった以上、伝言通り学び舎に彼女を「隠しておく」ことは出来ないだろう。そもそも先生はどうしてニコを隠せと言うのだろうか? もしや本当に、ニコが暗殺者だから──いいや、先生は好奇心の強い学者だが、さすがに暗殺者を匿うほど危険な真似はしない……はずだ。何か別の理由でニコをエリクに託したのかもしれない。きっとそうだと今は信じておくことにして、彼はもう一度、今度は腹を決めるために息を吐いた。

……分かりました。ニコを、聖都に……連れて行きます」

 

 

>>

back

inserted by FC2 system