11.


「え? しばらく出かける……?」

 淡い青空の下、目の前で呆けている幼馴染に、エリクは控えめに微笑む。

 町長の館にはエンフィールド公爵家の私兵が集まっており、獣の死骸を馬車に移している最中だった。何重にも布で包み、木箱に入れて更に梱包してもなお薫る腐臭。しばらく町長の館は匂いが取れないのではなかろうか、とエリクが呑気にも考えていると。

「ど、どうして? そんな急に」

「いや、急でもないよ。古文書の翻訳が終わったから、聖都の図書館に届けに行ってくる」

「じゃあ私が一緒に」

 予想していた切り返しに頭を振る。セリアの視線が失われた右腕に移される前に、彼はここに来た理由である頼みごとを告げた。

「ううん、セリアには先生と学び舎のことを頼みたいんだ。しばらく授業は休みって伝えたけど、子どもたちが遊びに来るかもしれないから」

……」

「あー……ええと、聖都までの道中はニコも連れて行くし、心配しなくて大丈夫だよ」

「!? 余計に心配よ! だってあの子、獣を……!」

 セリアの大きく見開かれた琥珀の瞳に、微かな恐怖が入り混じる。フランツ曰く、昨夜はセリアもあの現場を目撃していたらしい。彼女に限らず、凶暴な獣をいとも容易く殺したニコの姿に、漠然と恐怖を覚えた者は少なくないだろう。……そう考えると、ニコがこの町から追い出される未来もあったに違いない。いずれにせよエリクは彼女を連れて町を出る定めだったのだ。

「セリア、僕は……ニコが、無差別に生き物を殺すような子じゃないと思っているよ。あの青い瞳の獣だったから、反応したのかもしれないし」

「え……青い瞳、だったの?」

「ん? うん、多分、僕の腕を食べた──」

 そこでエリクはハッとした。八年前、獣の話を聞いたセリアが号泣してしまった記憶は、今も鮮やかなまま。今も自責の念に囚われ続けている彼女に、この話はすべきではなかった。案の定、幼馴染は真っ青な顔で唇を震わせている。

「そ、そんな、だからエリク、腕が痛くなったのね? やっぱり駄目よ、翻訳した本なら私が持っていくから、エリクはここに」

「ああーセリアっ、ちょっと落ち着いてくれ」

 捲し立てる幼馴染の肩を摩り、エリクはなるべくゆっくりとした口調を心掛けつつ語った。

「翻訳は僕が引き受けた仕事だから、君に任せるわけにはいかないよ。それに、君を一人で聖都に向かわせでもしたら、フランツさんに心配を掛けてしまうし」

「あんな変態どうでもいいのよ!!」

「へ、変態!? いやそうだけど──いや全くそうじゃなくて、とにかく公爵家に嫁ぐ予定の君に何かあったらいけない。だから代理は頼まないし頼む気もない、いいね?」

 今にも泣きそうになっている彼女に確かめれば、唇を尖らせながらも小さく頷いてくれる。まずは一つ聞き入れてもらえたところで、次に彼女が気にしていそうな件について言及した。

「それとさっきも言ったけど、ニコは危険な子じゃない。僕やセリアの言うことを素直に聞いてくれていたじゃないか」

……それは、そうだけど」

「セリア。あのときのニコが恐ろしく見えたのかもしれないけど……彼女が、僕を助けてくれたことに違いは無いよ」

「!」

 ──『ナーァ・ターク』

 エリクが獣の牙に掛かろうとした瞬間、ニコが囁いた言葉だ。あのときは痛みで意識が朦朧としていたため、咄嗟に脳内の辞書を引くなんてことは出来なかったが……あれは古代語で、「近付くことを禁ずる」命令にも似た成句。砕けた表現で言えば「触るな」といったところか。

 彼女の内には確かに、「エリクを助ける」という意思があったのだ。

 その後、少々やり過ぎては周りが見えなくなっていたようだが、やがてエリクの声に応じては気を鎮めてくれた。エリクには、彼女が悪意を以て力を振るうような人物であるとは思えない。

「しばらくしたら帰ってくるから、それまで……先生と子どもたちを頼むよ。もし先生が起きたら、ニコと一緒に聖都に行ったと伝えて欲しい」

……」

「セリア」

 宥めるように呼び掛ければ、ようやくセリアが折れた。「分かった」と小さく呟いた心配性な幼馴染に、エリクは己の不甲斐なさを痛感して苦笑する。もしかして右腕を失っていなくとも、こうして彼女に心配されていたのではなかろうかと。昔から人を見る目がないと言われているのに、今回も皆が怪訝な目で見るニコを庇っているのだから。まあ、そこは人を信用しやすいという長所として捉えておこう。

「ありがとう、学び舎は出来るだけ片付けていくよ」

 エリクの穏やかな声に、幼馴染はぐっと唇を噛みつつ頷いたのだった。

 

 ▽▽▽

 

 学び舎の扉を開けたエリクは、そこで何とも眠そうに突っ立っているニコと対峙した。暫し無言で呆けていた彼は、ゆっくりと後ろ手に扉を閉めていく。

「ニコ、まだ寝てて良かったのに」

……」

 エリクが町長の館へ赴く前、ニコは一時的に目を覚ました。そのときも物凄く眠そうだったが、ちょうど良かったので聖都へ向かうことは伝えておいた。

 学び舎へ戻る途上で古代語をちぐはぐに繋ぎ合わせて伝えようとし、即座に断念したエリクは帰宅後すぐに簡易な地図を描いて彼女に渡す。この町から徒歩で一週間ほど掛けて街道を北上すれば、ティール聖王国の聖都に到着する。その旨を説明しつつ、地図にエリクとニコの名を記し、矢印で聖都まで繋いでやると、それを目で追ったニコが小さく頷いてくれた。直後、話は終わったと言わんばかりに彼女は眠ってしまったわけだが、どうやらエリクが出かけている間に起床していたようだ。

 フランツは「準備もあるだろうから」と、エリクをすぐに聖都へ召喚するとは言わなかった。学び舎や先生の容態など、諸々を済ませてからゆっくり聖都へ来れば良いと。ただ、もしも万が一にでも逃亡の姿勢を見せたときは──覚悟をしろとも。ちゃっかり釘を刺されたエリクは、穏やかながらも物騒な紳士の笑顔を思い出しては頬を引き攣らせた。

 不意に、くいっと右の袖を掴まれる。意識をすぐ目の前に戻せば、瑠璃色の瞳に迎えられた。

……エリク」

「ん?」

「ブレイト・イウミット……ヤーエ」

 ニコが目を擦りながら告げた言葉は、すぐには意訳が出てこない、馴染みのない音の羅列だった。その後も何度か彼女が同じ言葉を繰り返したため、エリクは「ちょっと待った」と慌ててその手を引いて自室へ向かう。本棚から古代語の辞典を取り出し、ニコが口にした単語を引いていく。そうして出来た文章は、彼の背筋に嫌な汗を流した。

 

“獣が、あなたを狙っている”……?」

 

 ──もし、あの獣が八年前と別の個体だったというのなら。

 蒼穹の瞳は、他でもないエリクの血肉を求めるのだろう。理由はひとつも思い浮かびやしないが、食い千切られた右腕が、昨夜の獣がこちらに狙いを定めたことが、何よりの証拠なのかもしれない。

 

 八年前、あの瞳に魅入られたのは、エリクの好奇心などではなかったのだろうか。

 

……ニコ」

 暫し、呼吸すら忘れて辞書を見詰めていた。エリクは深呼吸をして、平静を保とうと試みる。あまり上手く行かなかったが、それでも彼は声の調子を上げてみせる。

「まだ、昨日のお礼言ってなかったね。……ありがとう」

……アリ……ガ」

 エリクは目を丸くして、隣を見遣った。そこには「あ」の形で口を開いたまま、ニコがこちらを見上げる姿。その気の抜けるような表情に、彼の強張っていた心が不思議と和らぐ。小さく笑いながら、彼は辞書を捲った。

「うわ、難しいな。い……イーフロー・クエイツ」

 ニコが微妙な顔をしている。こちらの発音が下手くそなのだろう。仕方なしに該当する箇所を指差し、彼女がそれを読んだところでエリクは告げた。

「ありがとう」

……アリガト」

 エリクの名に続いて彼女が覚えたのは、感謝を伝える言葉だった。

 

目次

back

inserted by FC2 system