09.


 演劇用に敷設された舞台が突如として破壊され、歓声は悲鳴へと変わった。走り回っていた子どもは足を止め、呆けた顔のまま親に引きずられていく。大道芸人は楽器や小道具を回収することも忘れ、すっかり青褪めた表情で物陰へと身を隠した。

 異常に冷えた空気に戸惑いながら、エリクはようやく人混みを脱する。人が一斉に掃けた広場は、既に凄惨な状態だった。華やかに飾られた舞台は半壊し、そこかしこに千切れた花弁が打ち捨てられる。今もなお舞台上で蠢く黒──異形の影は、誰かが落とした料理を皿ごと貪っていた。

「何だ……あれ……?」

「ひっ、く、エリクせんせぇ……」

「!」

 ハッとして異形から視線を外し、舞台袖に置かれた簡易な階段を見遣る。その下に、学び舎に通う少年が蹲っていた。どうしてあんなところに、とエリクが慌てた直後、舞台上の影が一際大きく音を立てた。舞台全体が揺れ、階段下にいる少年も併せて体を震わせる。このままではあの異形に気付かれてしまう。いや、気付かれなくとも舞台が崩落してしまえば、少年は下敷きになるだろう。

……っ」

「! ちょっとあなた!?」

 近くに立っていた女性が絶望的な色を声に滲ませ、駆け出したエリクを引き留める。だが迷っている暇はなかった。異形の気を少しでも引けば、少年を逃がすことが出来るかもしれない。

 そのとき、舞台上の異形が顔をもたげ、匂いを嗅ぐようにして鼻先を揺らす。誘われるように振り返った異形の頭部は、エリクにとって非常に見覚えがあり、なおかつ彼の足を止めてしまうには十分すぎた。

 

 ──それは蒼穹の瞳を持つ、あの獣だったのだ。

 

 途端に“右腕”が痛みを訴える。ここ数年で確かに治まっていたはずの痛みは、腕を失った直後と同等の激痛を生じさせた。意識を掻き消すほどの強烈な感覚が全身へと回り、エリクはついに膝から崩れ落ちる。

(何で、今……!)

 立て、逃げろと様々な悲鳴が聞こえてくる。けれど不思議と彼らの声は、壁を隔てているかのように不鮮明で。赤く染まった視界の奥では、少年が愕然とした面持ちでエリクに呼び掛けている。そして目の前には……八年前と同じように、獣がこちらに狙いを定めていた。

 

──ナーァ・ターク」

 

 今にも潰えようとした意識に閃く、凛とした声。わずかに痛みが退いたかと思えば、エリクの眼前から獣が掻き消える。ついで横切るは銀の煌めき。ゆるゆると顔を上げるとそこには、目が醒めるような笑顔を携えた少女がいた。

「ニ、コ」

 だがそれは幻だったのか、まばたきをすると普段の無表情へと切り替わる。瑠璃色の双眸でちらりとこちらを一瞥し、花飾りが施された剣を握り直した。これは──演劇に用いられていた模造剣だ。切れ味も重さも、本物には到底及ばない。それを知らないであろうニコは、不思議そうに模造剣を振ったかと思えば、軽やかに駆け出したではないか。

「ニコ!」

 先程ニコに殴り飛ばされたであろう獣は、気配を察知してはもがくように立ち上がる。威嚇の咆哮を上げては、獲物を捕らえる下拵えか、鋭い牙から銀糸を垂らした。しかし。

……!?」

 エリクを含め、その場にいた全員が硬直する。ニコはあっという間に距離を詰めては、模造剣を獣の脳天に振り下ろし、牙を粉々に砕いてしまったのだ。彼女の攻撃はそれに留まらず、石畳に伏した獣の背に踵を埋め、飛び出した舌を切っ先で貫く。そうして力づくで腕を振り払い、辺りに鮮血を散らせた。

 舌を引き抜かれた獣はのたうち回り、ニコの足元から転がり出る。口から血を溢れさせながらも、すぐさまニコの眼前へ飛びついたが──彼女はそれを予期していたのか、左手に持ち替えた剣で容易く地面に叩きつけてしまった。

 その様は、さながら少女がぬいぐるみで遊んでいるかのようだった。

 間髪を入れずニコが右足を持ち上げた瞬間、エリクは咄嗟にその肩を引っ張った。

「ニコ、もういいっ」

 振り返ったのは、不自然に見開かれた瑠璃色の双眸。表情も変わらなければ、息も切れていない。しかしそこには確かな高揚が宿っていた。彼女の異様さにエリクは言葉を詰まらせたものの、これ以上その獣を甚振れば……今度は町の人間がニコを恐れてしまう。獣は既に虫の息なのだ。脅威は去ったのだからと、彼はニコを咄嗟に抱き締める。

「!」

「ニコ、落ち着いてくれ。もうその獣は動けない、大丈夫だから」

……」

 一瞬、唸り声と共に強く身動ぎをしたニコだったが、彼の囁くような言葉を聞いてはピタリと動きを止める。暫し、静寂が通り過ぎた。誰もが戸惑いを露わに視線を注ぐ中、エリクは未だ波の如く寄せては引くを繰り返す“右腕”の痛みに耐える。ニコが落ち着きを取り戻すまではと、彼が苦しげに息を吐いたときだ。

……エリク」

「! ニコ?」

 からん、と模造剣が落とされる。何度か瞬きを繰り返したニコは、こちらを見上げるや否や──白目を剥きつつ眠ってしまったではないか。ぎょっとしたエリクは慌てて彼女の背中を引き寄せたが、上手く支えきれずその場に座り込んだ。

「え、ちょっ……? だ、大丈夫かい?」

 何とか落とすことなくニコを横たえたものの、この状況で熟睡するとは。一人取り残された気がしたエリクは、頬を引き攣らせつつ再び声を掛けようとしたのだが。

「ひ……!」

 周囲が俄かにざわめいたことで、エリクは顔を上げた。すると、ニコによって無力化された獣が動いて……いや、痙攣しているようだ。狼のような頭部と胴に、猿に似た強靭な手足。見れば見るほど奇怪な肉体をしているその獣が、ずっとこちらを凝視していることにエリクは気が付く。喉の渇きを、飢えを訴える眼差し。蒼穹の瞳は自身を痛めつけたニコではなく、ただひたすらにエリクのことを見ていた。

……また……」

 ──僕の腕が欲しいとでも言うのか。

 思い浮かんだ言葉に、エリクは息を呑む。見間違えでなければ、この獣はさっき“エリクの匂いを嗅ぎ分けて”いた。もしもこれが八年前にエリクを襲った獣と同じ個体だとしたら、彼の味を覚えていた、ということになるのだろうか。そしてもしも、これが八年前とは別の個体だったとしたら──。

 嘔吐を催すようなひどい腐臭が鼻腔を突いた。思わず顔を顰めれば、獣の肉体が徐々に縮小していることに気付く。どす黒い体液が石畳を汚し、深く滲む。乾き切るより先にまた薄く層を為し、獣を核に楕円を描いたところで勢いは止まった。

 ニコの金髪が汚れぬよう、エリクは匂いを堪えて彼女の体を引っ張る。ずきずきと痛む“右腕”も、ようやく鳴りを潜めてきた頃、広場の時が俄かに動き出す。一人がめちゃくちゃになってしまった料理や飾りを拾い始めれば、周りで茫然としていた者たちもハッと我に返った。子どもたちに獣の死骸を見せぬよう、仕切り直しと言わんばかりに大道芸人が明るく声を張り上げる。舞台袖で震えていた少年は、駆けつけた母親に思い切り抱き締められていた。その光景に、またひとつ痛みが退いていく。

「エリク殿」

「え?」

 ぼんやりと周囲を眺めていたエリクは、その柔らかな声に振り返る。

 

──少し、お話が」

 

 弧を描く口元とは裏腹に、フランツはどこか冷えた瞳で二人を見下ろしていた。

 

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