06.


 セリアは学び舎へ戻って来るなり、大股にニコの元へ向かっては少女を引き摺って行った。少女の名前や尖った耳のことなどを教えておこうと思っていたのに、彼女は適当な相槌を打って二階の部屋に引っ込んでしまう。そんなに急がなくても、とエリクがぽかんとしていれば、今度は玄関口から聞き慣れない声が掛けられた。

「失礼。昨日もお会いしましたね、エリク殿」

「え? ああ、貴方は……」

 振り向いた先には、昨日の若い紳士が立っていた。彼は扉をゆっくりと閉めては、帽子を外して軽く礼をする。エリクも釣られてお辞儀をしつつ、逃げるように二階へ行ってしまったセリアについて尋ねてみた。

「あの、一体何が?」

「いや、申し訳ない。彼女には少々嫌われていましてね。私との婚約がお気に召さないようだ」

 婚約。やはりそうだったのかとエリクは目を丸くしてから、改めて紳士の姿を確認する。……これは自慢ではないのだが、エリクは人を見る目がないとしばしば言われる。一見して優しそうな人間だと、つい信用してしまう節があるのだ。この紳士についても同じで、エリクにはとても好印象に見えている。身なりはこの町の誰よりも整っているし、かと言って華美が過ぎるということもない。背筋もぴんと通っていて笑顔も爽やか。歳も近いだろうし、セリアは彼の何が嫌なのだろうか。

「そういえば自己紹介がまだでしたね。私はエンフィールド公爵家のフランツと申します」

「フランツさん……あ、すみません、卿とお呼びした方がいいですか?」

「いえいえ、楽にしていただいて構いません。セリア嬢の大切なご友人なのですから」

 フランツはにこやかにそう述べた。貴族の、それも非常に高い身分の人間と話すのは初めてだが、嫌味を言われたり高圧的な態度を取られたりすることもなく。エンフィールドと言えばそれなりに評判の良い家だとも聞くし、当然と言えばそうなのかもしれない。エリクはそんなことを考えつつ、ハッとして口を開く。

「もしかしてセリアに付き添ってここまで?」

「ええ、屋敷に戻って来たと思ったら、またすぐ出て行ってしまわれたので。口説きがてら勝手に付いてきました」

「あ、えーと……じゃあ、中で待っていてください。寛げる場所でもないんですけど」

「良いのですか?」

「はい、授業もないし」

 「ならお言葉に甘えて」と笑った彼に、エリクは思わず頬を引き攣らせた。どうやら意外にも押しが強いというか、セリアに対して積極的らしい。ここまでの道中、ニコに渡す服を持っていたのも彼だろう。学び舎に着くや否や、セリアはそれらを盗賊よろしく奪い去っていったわけだが。何となく二人の距離感を把握したエリクは、とりあえずフランツを教室に案内したのだった。

「ここで子どもたちが勉強をしているのですね。内容は文字や算術を中心に?」

「そうですね、基本的なことは出来るように。歴史もちょっとずつ教えてます」

「素晴らしい。セリアもここで育ったと聞いたから、一度覗いてみたかったんですよ」

 小さく落書きされた長机に触れては、フランツが笑う。その横顔は純粋に子どもたちの成長を願うような、優しいものだった。エンフィールド公爵家は領民に教育の場を設けたり、個々が急な病に対処するために薬学についての知識も教授したりと、人々に寄り添った統治者として有名なのだ。そんな家に生まれたフランツが、この学び舎のことも好意的に捉えてくれていることを知り、エリクは不思議と安堵を覚える。

……ああ、そうだ。セリアが持って来てくれたお茶が余ってたはずなので、持ってきますね」

「! いや、そこまでしていただく必要はない。その腕では何かと不便でしょう」

「大丈夫ですよ、もう慣れ──」

 廊下に出ようとしたエリクは、ふと顔をそちらに向けた。そこにはゆとりのある白いブラウスに、何故か男性が着るような黒いトラウザーズを身に纏ったニコがいた。彼女はエリクの右袖を引っ掴み、どこか怪訝な眼差しでフランツを見据えている。

「ニコ、着替えたんだね」

……」

「ニコ?」

 ニコはちらりと視線を寄越し、何かを窺うように見詰めてくる。大きな瑠璃色の瞳は吸い込まれそうなほど深く、気を抜けばすぐに見入ってしまう。しかしその意思を汲み取ることは出来ず、エリクは一先ず彼女の肩を摩っては笑顔を浮かべた。

「フランツさんだよ」

「フラン、ツ?」

「そう」

 もしかしたら見知らぬ人物を警戒しているのかもしれない。フランツはただの客人だということを知らせるべく、エリクはその名前を教えてやった。するとニコの眉間から力が抜け、興味を失ったのか手が離れていく。ずるずると毛布を引き摺っては窓辺に張り付いた彼女に、「まだその毛布持ってたのか」とエリクは苦笑する。

……失礼、エリク殿。そちらのお嬢さんは?」

「え?」

 ふと怪訝な声で尋ねられ、顔を後ろに向けた。机に両肘をついたまま、表情だけは穏やかなフランツが、にこやかに彼女の素性を問う。先程とどこか雰囲気が異なる彼の様子に、エリクは少々ぎこちない笑みを取り繕いつつ口を開いた。

「ええ……と、恩師の知り合いみたいなんですけど、僕もよく分からなくて」

「恩師? ああ、バルドル殿という方でしたか?」

「はい。彼と一緒に学び舎に来たんです」

 詳しいことはまだ何も、と付け加えれば、フランツは笑顔のまま「そうですか」と頷く。ニコに関して、何か気にかかることでもあったのだろうか。だがあの不穏な笑みに向かって質問をぶつけることに、エリクは理由も分からずに尻込みしてしまう。これが身分の違い、畏れ多さというものだろうか──?

「エリク! 替えの服どこに仕舞ったらいいのよ!? クローゼットまで本だらけじゃない!!」

「はっ」

 重い空気をぶち破ったのは、二階から聞こえてきたセリアの困惑した叫びだった。彼女の言うクローゼットとやらを思い浮かべては、瞬時にエリクが頬を引き攣らせる。もしやそのクローゼットは、彼がここ数年で勝手に改造した本棚──と呼ぶにはあまりにも整然さが欠如した空間のことを指しているのではないだろうか。

「せ、セリア! ちょっと待ってくれ、すぐ片付けるから!」

「そう言っていつまでも片付けないじゃな──きゃああ!?」

 彼女の悲鳴を遮ったのは、本が雪崩のように続々と床を打つ音。絶望と共に顔を覆うエリクの傍ら、廊下に出てきたフランツと、窓辺でぼんやりとしていたニコが揃って天井を仰ぐ。やがて二人からの視線が背中に刺さり、エリクは向き直るなり慌てて弁解した。

「は、ははは、いや別に片付けが嫌いというわけではないんだけど、今のは偶然──迅速に片付けてきます」

 

 ▽▽▽

 

 本の海に呑まれていたセリアを救出した後、それこそ畏れ多くもフランツに片付けを手伝ってもらってしまった。謝り倒すエリクに、彼は気にするなと笑っていた。何の含みも持たない爽やかな笑顔を受け、やはり先程感じた緊張は気のせいだったのだろうかと、うっすらと埃を被ってしまった本を軽く振っていると、にゅっと視界の端から金髪が入り込む。

「あ、ニコ」

 途端、視界が暗くなる。エリクはまばたきを繰り返したが、ぼやけるほど近くに突き出されたソレが何であるか、暫し把握できなかった。手に持っていた本を収納しつつ、少しだけ後ろに下がってみれば、視界を塞いでいた長方形の表紙が現れる。

「絵本?」

「エホン?」

 ひょこっと横から顔を覗かせ、ニコがオウム返しに問う。心なしか、瑠璃色の瞳が見開かれているような気がしたエリクは、彼女が持ってきた絵本をもう一度確かめた。

「懐かしいな、これ。孤児院にあったものを貰ったんだっけな」

「コジーン」

「はは、そこは覚えなくてもいいよ」

 ニコの両手に絵本を寝かせ、エリクは表紙を開いてやった。冒頭に現れたのは一人の少女。月光の降る窓辺で、その少女が祈りを捧げている場面から話は始まる。

 

 少女はいつも何不自由なく日々を過ごしていたが、変わりばえのない暮らしに退屈しているのも確かだった。そうして戯れに、少女が「素敵な世界へ行きたい」と願いを口にしたとき。

 

……!」

 ニコがまばたきを忘れ、見開き一面に咲いた挿絵に見入る。

 

 少女の私室は一瞬にして美しい花畑へと変貌した。小鳥や蝶までもが舞う景色に、少女は圧倒された。驚きと興奮に戸惑いながら辺りを駆け回れば、やがて少女の目の前に真っ黒な仔猫が現れる。

『お願いはこれだけ?』

 つばの広いとんがり帽子、流れ星で作られた黄金の首輪、尻尾に暗色のリボンを括りつけた黒猫が喋る。今だけ特別にお願いを叶えてあげるという黒猫に、少女は喜んだ。二人の不思議な遊びは夜明けまで続き、朝日が昇ると共に少女は眠りに落ちたのだった。

 

──『魔法使いの猫』ですね」

「フランツさんも読んだことあるんですか?」

「勿論、有名な作品ですから」

 ごく一般的な創作とはいえ、公爵家でも読まれている絵本なのかとエリクは純粋に驚く。『世界中が夢を描く』という宣伝文句に、更なる説得力が追加された瞬間だ

 しかしながらこの場で唯一、ニコは件の絵本を知らなかった様子。ぺらぺらと頁を前へ後ろへ捲っては、美しくも柔らかなタッチで描かれた挿絵を、それはもう熱心に眺めている。何だか学び舎に来ている幼い生徒のようだと苦笑をこぼし、エリクは彼女の肩を小さく叩いた。

「ニコ」

「?」

「そこで見てて良いよ」

 丸椅子に座るよう促せば、すとんと彼女が腰を下ろす。……さっき本を片付けたおかげで、どこに行ったか分からなかった椅子が出てきたのだ。開いた絵本を指差してから、手のひらをニコに見せる。すると上手いこと意図が伝わったようで、彼女は大人しく絵本を眺め始めた。そういえば「読む」や「見る」という意味の古代語は何だったか──後で調べておこう。

……」

 そのすぐ後ろで、フランツが思案げに目を細めていたことに、エリクは気が付かなかった。

 

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