05.


──ご、ごめんなさい、エリク。あなたが女の子を部屋に連れ込むなんて、び、びっくりして」

「つ、連れ込む……彼女は先生の知り合いだよ、多分」

 ひりひりと痛む頬を摩るエリクの向かい、何とも恥ずかしそうに俯くのはセリアだ。顔を合わせるや否や見事な張手を食らい、興奮気味の幼馴染を必死に宥めて今の状況に至る。昔から女性に縁のないエリクが見知らぬ少女を、それも自室に寝かせていることに彼女は驚いたのかもしれないが、まさか平手打ちをされるとは彼も思っておらず、そして本人も自身の行動に驚愕する始末。ぐだぐだとした空気の中、昨夜起きたことを順序立てて説明すると、ようやくセリアが納得した様子で頷く。

「先生が……じゃあすぐにお医者様に診せないとね。それで、その……あの子は? 怪我とかしてないの?」

「いや、怪我はなさそうだった。でも着替えの服がなくて、セリアにちょっと頼もうかと思ってて……」

「そう…………。あの子、やっぱり今何も着てないんだ」

「えッ。いやその、肌着ぐらいは着てる……と思う……」

 何故だか定期的にセリアの視線が鋭く刺さる。エリクが少女の服を剥いたとでも思われているのだろうか。さすがにそんな真似はしない、と言いたいところだが──脳裏を掠めた少女の鎖骨に、エリクは慌てて首を振った。

「分かったわ。着れそうな服をいくつか持ってくる。ついでにお医者様も呼んできてあげるわ」

「え!? それは僕が」

「先生とあの子を放置するわけにも行かないじゃない。ちょうどお父さんの問診の日だから、気にしないで」

「そうか……ごめん、セリア。ありがとう」

 笑顔でお礼を述べてから、彼はふと目を瞬かせる。セリアの訪問以降、その騒々しさで忘れてしまっていたが、彼女はどうして学び舎に来たのだろうか。今日は子どもたちも来ないし、特に頼みごとをしていたわけでもないのに。今更ながらそんな疑問を抱いたエリクは、いつもより落ち着きのないセリアの表情を窺う。

「セリア、何かあったのかい?」

「へ? どうして?」

「授業が無い日は来ないだろう? ここに何か用事があったんじゃ……」

 その問いに、彼女はハッと顔を上げる。しかしすぐに取り繕うような笑みを浮かべては、慌ただしく椅子から立ち上がってしまう。

「う、ううん。ちゃんとエリクが寝たのかどうか気になっただけよ! また後でね」

「ああ……」

 本人が何もないと言うのなら、それ以上の言及は憚られた。しかし学び舎を後にする背中は、いつもより少しばかり前のめりで。気がかりな視線をそこに残しつつ、エリクは一先ず散らかった部屋を片付けるべく小部屋へと向かった。

 先生は未だ意識が戻っておらず、口元に手を当て呼吸を確かめなければ不安になるほど静かだった。この町へ戻るまでに一体どれだけの血を流したのか、以前よりも濃くなった髭面は青褪めたまま。医師に診せたところで、この状態からすぐさま回復するとは言えないだろう。八年ほど顔を合わせていなかったのは勿論、あの少女についても早く尋ねたかったのだけれど。

……?」

 黙々と部屋を掃除する最中、先生の外套を拾い上げては首を傾げる。そこからひらりと落ちたのは、一通の手紙だった。いや、手紙というにはあまりにも粗末な羊皮紙の切れ端である。エリクは外套を椅子に掛け、微かに湿った切れ端を摘まみ上げた。そこにはこう記してあった。

 

 ──エリク。ニコを隠せ。

 

 たった一行の走り書き。文末はインクが切れたのか、殆ど掠れてしまっていた。それが自身に宛てられた言葉であると気付いた瞬間、エリクは切れ端を裏返す。しかしそれ以外の文字は見当たらず、彼は困惑を露わにした。「ニコ」というのは、あの少女の名だろうか? 「隠せ」とは? ニコは誰かに追われているのだろうか? ゆえに彼女を匿った先生は、自分がこうなることを予期して伝言を残したのだろうか。

 小部屋に不穏な空気が侵入する。黒く変色した板張りの床が、異様に冷たく感じられる。

 ──確かにニコは異質な少女だ。現代語を解さず、他にはない尖った耳を持っている。目を惹きやすい人物であることは確かで、良くない輩に狙われることも十分に考えられた。例えば、その風変わりな容姿を見世物にして商売をする者。何らかの原因によって、生まれつき身体の一部が変異している子どもは呪いを受けていると言われ、早々に手放してしまう親も多いという。そうして捨てられた子どもが行きつく場所は、好事な人間の展示室である。エリクには全くもって理解できない世界だが、そういった取引が日常的に行われているという心苦しい事実は、先生から教えられていた。

 ゆえにエリクは少しの不快さを感じたのだ。もしかしたらニコは、そういう世界に置かれていたのではないだろうかと。証拠は無いにしても、哀れに思った先生がニコを連れて逃げたという可能性は無きにしも非ず。

 何故なら先生は昔、自身の娘を亡くしている。町の付近にあった川──今は騎士団によって整備されたが──が大雨によって氾濫し、不幸にも当時まだ幼かった娘が誤って激流に落ちたそうだ。それを助けようとした妻も一緒に。孤児だったエリクを養子として引き取った背景には、そんな過去があったからだと聞いた。八年ほど前、生死を彷徨い右腕を失ったエリクは、図らずも先生の傷を抉ってしまったわけだが。

 じっと思考に耽っていると、二階から物音が聞こえた。少女が起きたのかもしれない。エリクは切れ端をズボンの衣嚢に突っ込み、小部屋の扉をそっと閉めた。階段をゆっくりと上っていくと、自室の扉が開いていることに気付く。少し視線をずらせば、向かいの窓に張り付いている少女の姿があった。よく晴れた空と、その下に広がる町並みを凝視している。自身もその見慣れた景色に目を落としつつ、エリクは静かに声を掛けてみた。

「ニコ」

「!」

 少女がすぐに反応する。ほんの少しだが驚いたような顔で。

「先生……ああ、えっと。バルドルがそう書いていたんだよ」

 取り出した切れ端を指差しては、そのまま下の階を指す。恐らく先生の名を知っているであろうニコは、何となくエリクの言っていることを理解してくれたようで、口を半開きにしたまま数回ほど頷いた。そうして少しの沈黙を経て、エリクは自分を指差して告げる。

「僕はエリクだ」

……」

「ニコ、エリク」

 彼女と自分の顔を交互に指差して告げれば、ようやく理解した様子でニコが頷く。

「エリク」

「うん。……そうだ、ニコ、おいで」

 エリクは彼女に手招きをして、再び階段を下りる。ちらりと振り返れば、毛布に包まったままの少女が素直に後ろを付いて来ていた。先生はひどい重体だったが、やはり彼女に関しては怪我や不調などは全く見受けられない。足取りはしっかりとしているし、瞳の焦点もブレたりしていなかった。呼吸も穏やかで、健康そのものと言って良いだろう。肌は町の女性と比べると妙に白い気がするが、病弱そうな印象を受けるわけでもないので、そこまで心配する要素でもない気がした。

 ニコを一階の教室に案内し、その隅に座らせる。子どもたちが多く座れるよう設計された長机を、彼女は物珍しげに見たり触ったりしていた。それを後目にエリクは教室の隣──小ぢんまりとした調理場へと向かう。

 授業の休憩時間、セリアが子どもたちに間食を振舞うことがあるのだが、彼女が昨日焼いたパイがまだ余っていたはずだ。エリクは味に問題がないことを確認しつつ、傍にある大きな鍋の蓋を開けた。そこには野菜スープが入っており、外出時以外は常に火に掛けられている。火打石なんて時間が掛かる上に、片腕だけでやろうなんて骨が折れる。炉にはこまめに薪をくべること、スープは具材を足しながら作ること、とセリアに厳しく教えられたのは数年ほど前だが、最近になってようやく何を入れれば良い感じの味が出るか分かってきた。それ以前は──あまり思い出したくない。ひとつ言えるのは、薬草なんて入れるものじゃないということだ。

「あ」

 過去の失敗作を思い出しては渋い顔でスープを混ぜていると、いつの間にかニコが調理場を覗き込んでいた。匂いに釣られたのだろうかと、エリクは皿に分けたパイを差し出す。

「ニコ」

「?」

「えーと……オィツ?」

 発音には全く自信がないが、古代語で「食べる」という意味の単語だ。伝わるだろうかと恐る恐るニコの顔を窺ってみると、彼女の視線は既にパイに釘付けである。皿をもう少しだけ彼女の方に近付ければ、毛布からそろそろと片手が伸びた。じっとパイを見詰める彼女の手前、エリクはさっさとスープを注いでしまう。そして再び彼女に呼び掛けては教室へと戻った。

「どうぞ」

 パイとスープを机の上に並べ、スプーンを渡す。ニコはちらりと瞳を動かしてから、三角形に切ったパイを手で食べ始めた。よほど空腹だったのか、はたまたパイが気に入ったのか、彼女は暫くエリクを一切気に掛けることなく食事に没頭していた。エリクが作ったスープも綺麗に平らげてしまった彼女は、スプーンを置くや否や不意に両手を組む。

……?」

 食後の挨拶として、修道院などでは祈りの姿勢を取ることがあると聞いたことがあるが、エリクは彼女の手が少しばかり変わった組み方をしていることに気付く。全ての指を交互に組むのではなく、親指以外の指を二本ずつ交差させている。真似をしようとすると──エリクにはそもそも出来ないのだが──些か手間取ってしまうような形だ。ただ、そうすることで見える交差模様はどこかで見た覚えがあるのも事実だった。さてどこだったかとエリクが記憶を遡ろうとしたとき、学び舎の玄関口から扉の開く音が聞こえたのだった。

 

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