04.


 目を覚ました瞬間、エリクはびくっと肩を揺らした。

 昨夜、彼は学び舎の一階にある小部屋で、先生の手当てを終えるや否や眠ってしまった。床に座ったまま、妙な姿勢で長時間寝ていたせいで体の節々が痛くて、なんてことはどうでもよくて。

……あ、ええと……お、おはよう……?」

 眼前、それも鼻先が触れそうなくらいの至近距離で顔を覗き込んでいる少年。深い瑠璃色の瞳に気圧されつつ、恐る恐る挨拶をしてみれば、少年の興味がふと逸れる。顔を離してはその場に座り込み、質素な寝台を振り返った。エリクもその視線を追えば、そこには未だ意識が戻らない先生の姿がある。そっと口元に手を翳すと、安定した呼吸を感じ取ることが出来た。

「良かった、傷も……開いてないみたいだ」

 安心したのも束の間、彼は小部屋の散らかり具合を見ては肩を落とす。先生が身に纏っていた外套や衣服は泥だらけで、止血に使用した大量のガーゼと一緒に床を汚してしまっていた。今から片付けなければ、と溜息を吐きつつ、エリクは目の前の少年に視線を戻す。

「そうだ、昨日は手伝ってくれてありがとう。僕一人じゃ包帯も巻けなかったよ」

 この少年はエリクどころかセリアよりも小柄なのに、先生の体を軽々と抱き起せるほどの力があった。そのおかげで怪我の処置が予想していたよりも楽だったのだ。無論、頼み事が聞き入れてもらえるまでに少々時間が掛かったのも事実だが。

「あっ……ごめん、君も着替えた方が良いな。そのままじゃ風邪をひくよ」

 話を聞いているのかいないのか、少年はきょろきょろと周囲を見回している。エリクがその湿った外套に手を掛ければ、ようやく顔がこちらに向く。その拍子にフードが外れ、美しい金髪が露わになった。短くもゆるやかな弧を描く金糸は勿論──エリクは“あるもの”につい見とれてしまう。

……!? 耳……」

 ──少年の耳は、不自然に尖っていた。

 思わずそこに触れてみると、エリクのものと変わらぬ感触が訪れる。軟骨はしっかり存在しているらしく、際立って硬質というわけでもない。どうしてこのような形に──と、ついつい観察してしまったエリクは暫くしてから我に返る。耳を摘まんでいた左手が、少年によって軽く叩かれたのだ。

「うわ、ご、ごめんっ」

「ナーァ!」

「なー……?」

 聞き慣れない発声に呆けると同時に、少しの違和感も覚える。想像していたよりも随分と高い声だったのだ。まだ変声期に入っていないのだろうか……そんな考えは、てんで的外れだったことをエリクはすぐさま知ることとなる。

 少年は濡れた外套を脱ぎ、そのまま白いブラウスの前を開く。突然その場で着替え始めた少年に驚き、エリクは少し遅れて口を開こうして──瞬時に赤面した。

「!? ま、待った、待った!!」

 ちらりと覗いてしまった真っ白な柔肌。丸みを帯びた肩や膨らみまで視認してしまった彼は、咄嗟に少年、否、少女のブラウスを閉めた。エリクが混乱のあまり絶句している傍ら、着替えの中断を余儀なくされた少女はどこか不満げな瞳を寄越す。衣服が濡れていて気持ちが悪いのだろうが、いやいや、何が何でも少し待ってほしかった。

「じ、女性だったのか……」

「?」

 

 

 ▽▽▽

 

 

 暖炉の前でじっと座っていた少女は、うとうとと舟をこぎ始める。着替えを用意するまでは、申し訳ないが毛布に包まってもらった。さてどうしたものか。この学び舎は元々、先生とエリクの二人で暮らしていた建物だ。女性が身に着ける衣服など備えているはずもなく。エリクと少女の体格がもう少し近ければ、彼の衣服を一時的に貸すことも出来たのだが。

 そして残念なことに、少女が先程まで着ていた服は濡れているばかりか、水洗いしても落ちないであろう泥汚れが酷かった。再び着用することが可能なのはブーツぐらいだろう。

……仕方ない、セリアにお願いするか……」

 エリクは参ったように後頭部を掻き、ちらりと暖炉を見遣る。既に少女はその場に横たわり、気持ちよさそうに眠ってしまっていた。彼が言うのも何だが、とてものんびりとした性格の持ち主だ。初対面のエリクに対して特に警戒することもなければ、彼が差し出したものを撥ねつけたりすることもしない。訝しむどころか素直に受け取り、ああやって毛布に包まっている。

 ところで、少女と先生の関係は一体何なのだろう。この町まで一緒に戻ってきたことは確かだろうが、旅先で知り合った女性──それも十代半ばの少女を連れ帰ってくるとは何事だ。つい先生のことを怪しい目で見てしまいそうになるが、あれほど大きな傷を負っていたことも考えると、その道中で危険な目に遭ったことも事実である。

「まさか……」

 彼女を連れてくるために、八年も町を離れていたのだろうか。

 エリクは再び少女を見詰め、その尖った耳に目を留める。普通の人間にはない特徴を持つ少女。それとまだ確定したわけではないが、彼女はどうやら言葉を話すことが出来ないようなのだ。いや、それは少々の語弊があるだろうか。声も出る、耳も聞こえる。それでいて操る“言語”が違うような気がした。

 考えれば考えるほど強まる、少女の異質さにエリクは思わず唸った。先生の意識が戻り次第、すぐにでも彼の事情と少女について聞きたいところだ。

「って、そうだ。医者に見せないと」

 いくら傷の応急処置は施したと言っても、安心することはできない。ちゃんとした医師を呼び、先生の傷を見てもらわなければ。エリクは硝子戸の外を窺っては、からりと晴れた空を確認する。今日は幸い学び舎の授業も休みだ。すぐに町長の館へ赴き、セリアに事情を伝えよう。それから医師の元へ──。

……わ!?

 硝子戸から顔を放した瞬間、すぐ後ろに立っていた少女にエリクは驚いた。ごしごしと目を擦る少女を見下ろし、エリクは少しの間を置いてから口を開く。

「ね、寝てて良かったのに…………あぁいや、床は痛いよね。おいで」

 眠気を拭おうとする細い手を掬うと、やはり少女は素直に付いてきた。エリクはそのまま二階の自室へと向かい、普段使っている寝台に少女を座らせる。あまり気が進まないが、一階の小部屋に先生を寝かせているため、使える寝台がここしか残っていないのだ。

「寝ていいよ。あ、毛布も使っていいから」

 暫しの沈黙。エリクが枕をそっと叩いてやれば、少女はごろんと横たわる。そしてよほど気に入ったのか、毛布に顔を埋めては瞼を閉じた。

「ヴィウム……」

「え?」

 ぽつりと呟かれた単語。エリクが聞き返した頃には、既に少女は眠りの中。「ヴィウム」を頭の中で何度か反芻した後、エリクはいきなり本棚に歩み寄る。セリアが適当に収納してしまったおかげで少し時間が掛かったが、ようやくお目当ての本を見つけて引っ張り出す。重量感のあるそれを机に置き、慣れた手つきでページを捲っていく。

「あった。ヴィウム」

 それはとある言語学の辞書にある項目だったのだが、エリクは自身の記憶が合っていたことに驚きを覚えた。何せ「ヴィウム」とは、二千年前に“巨人族が使っていた言語”に該当するのだ。確か品詞は形容詞で、意味は……と、調べたところでエリクは苦笑する。

……。“温かい”」

 なるほどと納得する反面、少女が何故“巨人族の言葉”──古代語を用いていたのか、それについては首を傾げてしまう。今では学者ぐらいしか古代語を読む者はいないし、況してや古代語で会話をする人間など奇異な目で見られてしまう。エリクも一応は読み解くことが可能だが、実際にその発音を耳にしたのは初めてだ。

「あ、じゃあ“ナーァ”は」

 今朝、少女が発した言葉もついでに調べれば、出てきたのは「拒否」の意。あの尖った耳を触られることに抵抗があったのだろう。エリクは不躾かつ失礼なことをしてしまったと反省しつつ、一先ず辞書を閉じた。

 少女の話す言葉が古代語であることは分かった。口数が少ないため、流暢に話せるというほどでもなさそうだが……単語だけでも伝えられれば会話がぐっと楽になるだろう。後で使えそうな単語を覚えておこう、と彼が部屋を出ようとした時だった。

「あれ?」

 そこに、唇をわなわなと震わせるセリアが立っていた。彼女は八年前にも劣らぬ青ざめた顔で、エリクと少女を交互に見る。そんな忙しない視線の移動に首を傾げつつ、彼は何の曇りもない笑みで口を開いた。

「セリア、来てたんだ。ちょうどよかっ──」

──そ、その子誰ッ!?」

「えっ」

 ぱしーん、と清々しい音と共に、エリクの頬は引っ叩かれたのだった。

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