03.


 

『右腕が痛む?』

 少年の訴えに、医師は何とも不思議そうな声で聞き返した。その視線は少年の顔と、切断された右腕を行き来している。すると、診察に同行してくれた町長が困ったような顔で口を開いた。

『激しい痛みがするそうで。酷いときは歯を食い縛って、そのまま気を失うことも……』

『ふむ』

 町長の証言に暫し黙考した医師は、おもむろに少年の右肩に触れる。痛みは頻発するのか、それはどういう時なのか、他に体調の異変はないか……いくつかの質問に答えていけば、医師はやがて難しげに唸り始める。

……君と同じような状態の患者がいると聞いたことがあるな。まだ詳しい治療法は確立されていないんだが』

 曰く、戦や事故で四肢を失った人間が、欠損した部位に激しい痛みを感じる例があるという。通常、負傷した部位から痛みが生じることはごく自然なことで、そういった場合は鎮痛薬を飲めば解決する。しかしながら少年のように“存在しない部位”が痛むのであれば、鎮痛薬は残念ながら機能しないのだ。

『獣に噛みちぎられたんだったか? 恐らく相当なショックを受けたろうからなぁ……精神的な要因もあるのかもしれん。とにかく悪いが、その痛みを和らげる方法は今のところない』

『そうですか……』

『ああ、だがやれることはやろう。心的なものなら……そうだな、痛みが生じたら呼吸に気を付けるといい。右腕の存在を意識してはならん。目を閉じ、ゆっくりと息をしなさい』

 医師は助言に加え、気分を落ち着かせる薬を少年に渡した。医師の見立てでは、凶暴な獣について考えることで恐怖を覚え、記憶──身体の痛みが再生されるのではないかとのことだった。如何せん原因がはっきりとしない症状のため、これはあくまで憶測でしかないとも。ただ、この不可思議な痛みは長くても数年で治まるという。大抵の患者は次第に痛みを訴えなくなり、普通に生活が出来るようになるそうだ。

『エリク……すまないね。そうだ、獣のことを思い出してしまった時は私のところに来ると良い! 妻とセリアと一緒に、温かい毛布に包まろう!』

『ええっ、い、いいです、そんな』

『遠慮しないでいいぞ、エリクは私の息子同然だからな』

 陽気な町長の言葉に笑いながらも、少年はどこか腑に落ちなかった。

 少年は別に、あの獣に恐怖など抱いていない。むしろ、神々しさを感じたほどだ。こんなことを町長やセリアに言えば心配されるだろうし、さすがに言おうとも思わない。だが少年があのとき、獣の「青」に魅入られたことは確かだった。

 途方もなく透き通った、蒼穹の瞳に。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 ひんやりとした空気が鼻先に触れ、深い眠りから覚醒する。寝具の白色を無為に見詰め、長い時間を掛けて息を吐く。そうすることで、胸に溜まっていた空気が一斉に入れ替わっていく。何度か深呼吸を繰り返したところで、エリクは体を仰向けにした。

……雨?」

 硝子戸に滴る無数の雫を認めた後、更にその向こう──薄暗い外の景色を知っては飛び起きる。

「うわ……どれだけ寝てたんだろう」

 昼間、セリアの言いつけ通りに寝台へ転がってからの記憶がない。夜更かしをすればするほど日中の活動に影響が出る、というのは至極当然だが、これからはもう少し区切りを付けて生活すべきだろう。王立図書館から依頼された古文書の翻訳も、残すところあと一節だけ。完成次第、聖都へ出向き古文書の返還と納品をすれば、この不規則かつ不健康極まりない生活も終わる。

「また何か言われるんだろうか」

 エリクは遠出に当たって必ず浴びせられる、セリアの注意事項を思い出しては顔を引き攣らせる。道中、街道から決して離れないこと、移動にはなるべく馬車を使うこと──さすがにそこまで心配されると、もはや親から注意を受ける子どものような気分になってしまうものだ。

 いくら右腕がないからと言って、彼は何もできないわけではない。左手で文字を書けるよう練習したし、腕一本でも自分の体を支えられるくらいの筋力もつけた。不便なことが一切無いとまでは行かないが、過剰に心配されると──少し、居心地が悪くなるのも事実である。こういった主張も我儘になってしまうのだろうかと苦笑しつつ、エリクは寝台から降りた。

 さて、見たところ外は既に日も落ちているようなので、とりあえず軽く腹を満たしておかなければ。その後、古文書に目を通してから朝まで睡眠を取る。起床してから翻訳作業に移れば、明日中には完成できるだろう。これからの予定をざっくりと立てたエリクは、開けっ放しのカーテンを閉じようとして固まる。

……?」

 雨粒だらけの硝子戸に顔を近づけ、その向こうにある薄闇に目を凝らす。学び舎の前にある細道に、誰かが座り込んでいるのだ。全身ずぶ濡れだろうに、その人影はじっと俯いたまま動かない。かと思えば、不意にその顔がエリクの方へと向けられる。

 ──刹那、また小さな痛みが“右腕”に走った。

 反射的に肩を押さえたものの、痛みは既に引っ込んでいて。その一瞬の痛みは、まるで彼をあの人影の元へ向かうよう催促したかのようでもあった。エリクは戸惑いを露わにしつつ、すぐに外套を羽織って部屋を飛び出す。階段を駆け下り、玄関扉を押し開けば、爪先が雨に濡れた。

……! どうしたんです?」

 水溜まりを避けつつ人影の元へ向かうと、その傍らにもう一つ、力なく横たわっている大きな影に気付く。座り込んでいる小柄な人影は、エリクの呼びかけに応じることなく静かにそれを見詰めていた。

「あの」

 すぐ近くで再び声を掛けると、ようやく小柄な──少年が顔を上げる。外套のフードから覗く大きな碧眼に、息が止まりかけた。そのまま穴が開くほど見詰められてしまったエリクは、我に返っては慌てて言葉を続ける。

「どうしたんですか、この人は……? 怪我人ですか?」

……」

 俯せに倒れている人物を指差せば、少年がふと視線を下ろす。ちらりとエリクを窺っては、その指先を真似るように人差し指を伸ばした。

「バルドル」

「え? バルドル……?」

 告げられたのは、先生の名前だった。エリクはすぐに倒れている人物の肩を掴み、ぐいと仰向けにさせる。皮膚を汚す泥水を拭えば、記憶よりも些か老け込んだ顔立ちが明らかになった。

「せ、先生!? 一体何が……」

 混乱のあまり問い詰めようとした彼だったが、氷のように冷たい身体を知っては思い止まる。加え、石畳には雨とは異なる──大量の血が流れていたのだ。傷を負っていることは明白で、急いで処置しなければ大変なことになるだろう。エリクは唇をきつく閉ざし、先生の身体を抱き起そうと試みる。しかし腕一本ではなかなか上手く支えることが出来ず、彼が焦りを浮かべた時だ。

「あ」

 不意に立ち上がることに成功し、エリクは自身と反対側に立った少年を見遣る。先生の左腕を担いだ少年は、また大きな瞳でこちらを窺っている。

……ぐそこまで運んでくれるかな、頼む」

 顎で学び舎の方を指し示せば、行き先を確認した少年が歩き出した。どうやら悪人ではないようで、もしかしたら先生の付き添いなのかもしれない。口数は非常に少ないが──エリクは一先ず少年の手を借りることにしたのだった。

 

 

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