02.


 

 

 

 誰かが呼んでいる。心地よい微睡の海を漂い、辿り着いた先に見えたのは淡い光。手を伸ばせば温もりが伝わり、指の隙間を爽やかな風が吹き抜けた。そうして再度、己の名を呼ぶ声に耳を澄まし──。

「エリク? 起きてるの?」

 ようやく意識が覚醒する。紅緋の瞳を開けば、こちらを覗き込むセリアの姿があった。そのどこか心配するような眼差しを受け、彼は慌てて笑みを浮かべる。

「ああ、今……おはよう、セリア」

「おはよう。寝坊なんて珍しいわね」

「へっ?」

 何故、彼女が自分の部屋にいるのか。その理由を考えては飛び起きる。右側へ傾きかけたをぐいと起こし、射し込む陽光に目を細めた。きっちりと束ねられたカーテン、開け放たれた硝子戸、腕捲りをして頭巾まで被っている幼馴染。エリクは頬を引き攣らせ、寝癖のついたブラウンの髪を掻いた。

「ご、ごめん、セリア。起こしに来てくれたんだ」

「ええ。でも……なかなか起きないから、この汚いお部屋を掃除しておこうと思って」

「うッ……」

 とっ散らかった寝室──兼書斎を見渡し、エリクは何も言えなくなる。昨夜、古文書の翻訳本を製作していたせいで辞書は積み上げられたまま、空になったインクボトルも無造作に放置されたまま……この惨状を見たセリアの溜息が、エリクにはとても恐ろしく聞こえてしまう。

「最近、これの翻訳で忙しいっていうことは知ってたけど、ここまで酷いなんて! どうせ昨日も遅くまで起きてたんでしょう?」

「いや、でもちゃんとベッドで寝たし」

「当たり前よ! 子どもなの!?」

 セリアはてきぱきと辞書を本棚に戻しながら憤慨する。ちょっとばかし委縮したエリクだったが、彼女に片付けをやらせるわけにはいかないと急いで寝台から降りた。しかしながら、悲しいことに彼がやるよりも部屋は数倍早く片付いていく。掃除が一通り終わるまで何一つ介入できなかったエリクがやったことと言えば、開いたままだった古文書を閉じただけ。

「寝ぼけて階段から落ちたりしないでよ」

 その最中、ぽつりと囁かれた言葉に顔を上げる。セリアはちらりと瞳を寄越してから、ばつが悪そうに頭巾を外した。ふわりとこぼれた鳶色の髪を結び直し、彼女は立て掛けていた箒を掴み取る。

「ほら、子どもたちが待ってるわ。行きましょ」

 彼女の足音が階下へ遠ざかり、エリクは苦笑を滲ませた。

 

 

 ──エリクが右腕を失ったのは、今から八年ほど前のこと。

 先生と共に町へ戻ってきたエリクを、いつも通り一番に出迎えたのはセリアだった。彼が凶暴な獣に襲われて腕を失ったと知るや否や、セリアはその場で号泣してしまった。彼女は軽い気持ちで「花を取ってきて欲しい」と頼んだことを、今でも悔やんでいるに違いない。決してその頼み事が原因ではないとエリクや先生が説得しても、彼女の自責の念を完全に払拭できたようには見えなかった。

 それからというものの、セリアは以前にも増して世話を焼くようになった。不便だから危険だからと、エリクの行動を常に気遣うようになったのだ。そのうち落ち着くだろうという先生の予想は大きく外れ、互いに十八歳となった今でも彼女の手伝いは続いている。適当なことを言った先生に文句を垂れようにも、肝心の先生は今どこにいるのやら。

「エリクせんせー!」

「あ、おはよう。遅れてごめんよ」

 身だしなみを整えてから一階に向かえば、すぐに幼い生徒たちが駆け寄ってくる。彼らはこの学び舎に通う子どもたちで、本来ならばエリクではなく先生の授業を受けるはずだった。現在、先生の不在によってエリクが代理を務めているが、「先生」と呼ばれることは勿論、文字や歴史を教える側に立つことには未だ慣れないものだ。

 この町で唯一の学者である先生は、昔からここで幼い子どもたちに向けて簡単な勉学を教えていた。町の者たちにせがまれて、というわけでもなかったが、彼自身それなりに楽しく教師を全うしていたように見える。そして──早くに妻子を亡くした先生にとって、この学び舎は憩いの場でもあった。エリクを養子として引き取ったのも、それが起因してのことなのだろう。

 しかし先生は、エリクが右腕を失ってすぐ、学び舎を手放してしまった。

『お前のことは町長に頼んである。心配は無用だ』

 そう言い残して、もう八年。

 先生はこの学び舎を閉じて構わないと言っていたが、文字の読み書きを教えて欲しいという年少の子どもたちを放っておくことも出来ず、エリクは数年前から自ら教師の真似事を始めた。次第に町長やその娘であるセリアも協力してくれるようになり、今や学び舎の教師と言えばエリク、といった認識が広まるほどになっていた。

「エリク! 読むから聞いてて!」

「ずるい、わたしが先!」

「待った待った、一斉に喋らないでくれ」

 文字の読み、つまりは発音についてエリクはそれほど気にする要素ではないと考えていたのだが、女児は特に由緒ある屋敷に給仕として働くことが多く、発音に関して厳しい注意を受けることも珍しくはないと聞く。ならばと正しい発音方法を教えるため音読の時間を設けたはいいが、些か元気すぎる子どもたちはその趣旨を理解できるはずもなく。

 結局、全員でばらばらに読み始めてしまう彼らに苦笑すれば、おかしげな笑い声が傍から漏れる。

「ふふ、これじゃあ歌の授業でもやった方が効果的かもね」

……歌かぁ。楽しそうだね」

「え。じょ、冗談よ。エリクは歌わない方が良いわ」

 遠回しに音痴を指摘されたような気がしたエリクは、「そうか」と何とも言えない表情で頷いたのだった。

 

 

 ▽▽▽

 

 

「先生、さよーなら!」

「うん、またね」

 最後の一人を見送ったところで、エリクは大きな欠伸をする。寝坊しつつも無事に授業を終えたせいか、とんでもない睡魔が襲い掛かって来た。しかし空はまだまだ青いまま。せっかくの好天候、こんな日は──。

──薬草の採取でも、なーんて考えてないわよね」

「へ!?」

 ぎくりと肩を揺らす。こちらの顔を覗き込んできたセリアは、見透かすように琥珀の瞳を細めた。エリクの嘘や隠し事を問い詰めるときの、幼い頃から変わらぬ仕草だ。

「今日はもう寝なさい」

「ええ!? まだ昼だろう!?」

「睡眠時間が少なすぎるの! ほら、早く部屋に行く! あ、翻訳の続きもしたら駄目だからね」

「せ……セリア、分かった、分かったから」

 疑る眼差しに負け、エリクは左手を挙げて降参する。よろしいと言わんばかりに彼女が鼻を鳴らしたとき、ふと琥珀の瞳が他所へと向けられた。彼女の視線を追うように振り返ると、そこには見慣れぬ服装の紳士が一人。エリクよりもいくつか年上の青年は、にこりと微笑んでから歩み寄ってくる。

「お取込み中失礼、町長のご息女がこちらにいらっしゃると伺いまして」

「え? ああ、それなら彼女のこと──うわっ」

 ぐいと左腕を引かれ、エリクは学び舎の中へと押し込まれる。驚いてセリアを見遣れば、どこか気まずそうな顔。

「セリア?」

「お、お客様がいらしたから屋敷に帰るわ。今日は早く寝ること、いいわね!」

 こくこくと頷いて見せると、セリアはふと優しい笑みを浮かべた。そのまま扉を閉められてしまったので、以降の会話を聞くことは叶わず。少しの沈黙の後、エリクは不思議そうにしながらも踵を返した。

……客? この町に?」

 こんな小さな町に、あのような──見るからに育ちの良さそうな人間が来るのか。身なりは勿論、同性であるエリクから見ても顔立ちの整った人物だった。恐らく裕福な家の出なのだろうが、何か目ぼしいものでもあっただろうか……そう考えて思い浮かんだものと言えば。

「ああ……」

 ちらりと扉を振り返る。確証は無いが、もしかしたらお目当てはセリアかもしれない。

 この町はティール聖王国の聖都へと続く街道沿いに位置し、都へ上がる貴族がごくたまに立ち寄ることがある。彼らをもてなすのは専ら町長の役目であり、娘のセリアも例外ではないだろう。以前──二、三年ほど前のことだが、彼女を息子の妻にしたいと望む紳士がいたのだ。紳士曰く、セリアはそこらの令嬢よりも教養があり、また親しみやすい女性である、とか。そのときは何かしら理由をつけて丁重に断ったそうだが、今回も求婚の可能性は高いだろう。

 エリクは一通りそのようなことを考えてから、頭を振った。いくら幼馴染とは言え、あまり込み入った事情を詮索するのは彼の性に合わない。何せ、エリクが右腕を失いさえしなければ、彼女はもっと早くに町を出ていただろうだから。誰かの妻として、という限定的な話ではなく、様々な可能性が彼女にはあったはずだ。幼い頃は王立図書館の司書になりたいなんて語っていたが、能力としては充分に足りている。

 それを、彼女をこの片田舎に縛り付けているのは紛れもない自分なのだろうと、エリクはふとした瞬間に思うのだ。

……っ」

 無いはずの右腕が痛む。ほんの僅かな、針で刺されたかのような小さな刺激。ゆっくりと息を吐き出せば、痛みはすぐに消え去った。

「おかしいな、もう治ったと思ったのに」

 エリクは呟きつつ、右肩を摩る。先生も、セリアも、子どもたちもいない学び舎は、とても広くて静かだった。

 

 

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