01.


 

──先生。これですか?」

 小さな植物図鑑を片手に、ぼんやりとした挿絵と真っ赤な葉を見比べる。よく似ていると思うのだが、残念ながら説明には葉まで赤いとは書かれていない。難しい顔をして唸れば、背後から影が覆いかぶさった。見上げると、先生がざらざらとした無精髭を撫でつけながら、少年が今まさに摘もうとしていた植物を指差す。

「良い色が出そうだが、残念ながらそりゃ毒草だ。摘むなよ」

「ええ?」

 遺跡の探検ついでにと幼馴染から頼まれたのは、赤色の染料になる花を探してきて欲しいという旨だった。図鑑によれば「日当たりが悪く、じめじめとした場所に多く咲く」とされ、少年の住む町にはなかなか群生しない種だそうだ。この遺跡なら条件を満たしているだろう、ということで幼馴染の頼みを聞いたのだけど──。

「また外れかぁ……これ、かなり珍しい種なんですか?」

「ああ、しかも高く売れるから商人がすぐに採取していく。鮮やかな色が出るんだとよ。セリアの嬢ちゃん、何でそんなもん要求してきたんだ」

「さぁ……」

 使用目的は知らないが、取り敢えずどこからか優れた染料の話を小耳に挟んだのだろう。セリアはよく絵を描いたり染め物をしたり、何かと多趣味な少女だから。

 溜息交じりに図鑑を閉じ、その場に立ち上がる。夕暮れ時の空は朱く、地に向かって藍に滲む。くるりと爪先を返せば、転じて昼間の青空がそこに居残っていた。どうにも不思議な色合いを見上げていれば、冷たい風と共に先生の足音が遠のく。

「そろそろ宿に戻るぞ。ここらは賊が横行してるらしいからな、暗くなる前に撤退だ」

「はい」

 小走りに先生の後を付いていきながら、閑静な森と遺跡を見回す。遺跡……いや、ほとんど形が残っていないのは勿論、特にこれといって収穫もなかったので、廃墟と言っても差し支えはなさそうだ。苔の侵食を許した石柱、半壊した台座らしきもの──単なる椅子だろうと先生は言っていた。目ぼしいものはゼロと言うことで、今回の探検は早々に少年のお使いへと移行してしまった。

 二千年前、この大陸を未曽有の危機に陥れた“巨人族”──その手がかりを拾うべく、学者は今現在も各地を奔走している。勿論、先生もその一人。そして少年は彼の遺跡調査に数か月前から同行させてもらっている身だ。いくら同年代の少年少女よりも知識が豊富だからと言って、充分に満足できるほど少年は大人しくない。自分の足で過去の軌跡を追う、その行為が堪らなく心を躍動させるから──調査の同行許可を得ようと熱弁した際、先生からは「ほどほどにな」と心配されたことは記憶に新しい。

「エリク、昨日の記録あるか?」

「はい、湖畔の遺跡にあった古代文字なら写しましたよ!」

「そうか、なら後で翻訳だな」

「僕がやってみてもいいですかっ? 辞書も持って来てるし」

 意気揚々と手を挙げた少年に、先生はふと振り返って笑う。

「いいぞ。ちゃんと出来てるか見てやる──あ」

 ぽつり。鼻先に冷たい雫が落ちる。二人して天を仰げば、茜色の空から小雨が降り注いできた。

「晴れてるのに……」

「すぐ止むさ」

 先生が再び歩みを再開する。一方の少年は、顔を戻すや否や後ろを振り向く。目に見えぬほど細やかな雨粒が、ちらちらと森の薄闇に落ちていく。凪いだ緑をじっと見詰め、少年はゆっくりと首を傾げた。

 どれほどの間、そうやって何もない森を見ていたのか。先生の足音が捉えきれなくなった頃、少年は恐る恐る森へと近付いた。湿った土の匂い、独特な重さを感じさせる風が皮膚に纏わりつく。少しの気持ち悪さを感じて頬を拭ったとき、足元に鮮やかな赤が咲いた。

「え? ……あ!」

 それはセリアから頼まれた、赤い花をつける植物だった。先程見付けた毒草とは違い、茎も葉も深い緑をしている。何より毒々しい斑点模様もない。思わぬところで収穫が得られたと、少年はそっと花の根本を掴む。傷付けぬよう土を優しく払い落とし、空瓶に入れたところで満足げに頷く。

……でも一輪だけじゃ色なんて出ないのかな」

 ふと不安が過ったが、残念ながら染料については詳しくない。もしもこれだけでは役に立たなかったとしても、実物を見ることで後々の採取がしやすくなるだろう。何事も前向きに捉えよという先生の教えに則り、少年は踵を返そうとした。

 しかし今度は、こちらを見据える青い双眸に動きが止まる。

 いつからそこにいたのだろう。茂みの中からじっと少年を凝視する、狂気をも秘めた鋭い眼光。意識した瞬間に聞こえてきた、不規則な荒い呼吸。枝を踏み折り、にじり寄る気配。声とは程遠い獣の唸り。

「エリク?」

 先生の声が遠くから近付く。それでも少年は逃げるどころか、助けを呼ぶこともしなかった。

……エリク!!」

 眼前に青が迫る。右肩に無数の牙が突き立てられてもなお、少年はその美しい色に魅入られていた。

 

 ──そこから、少年の記憶は曖昧だ。

 

 覚えているのは、先生の腕に抱かれて宿屋へと戻ったこと。先生の服が血まみれだったこと。そこにいた者たちが皆一様に青褪めていたこと。そして──自身の右腕が、あの獣に食い千切られてしまったこと。少年は激痛を感じる余裕もなく、朧気な意識の中でただ浅い呼吸を繰り返した。

 先生があれほど必死な形相を浮かべることなど、後にも先にもなかっただろう。だというのに、先生や駆けつけてくれた医師に反して、少年の気持ちはどこまでも静かだったように思う。視界を大勢の人が忙しなく通り過ぎていく、その隙間。思い浮かぶのは宝石すら霞むほどの青。右腕を食い千切った恐ろしい獣。少年はあの獣がどうなったのか、どこへ行ってしまったのか、それだけが気になっていた。

「エリク、お願いだ、死なないでくれ……」

 不意に聞こえた先生の祈りに、少年の意識が逸れる。繋ぎ止めるように頬を擦られ、虚ろな瞳を横へと動かす。

……せんせ……」

 

 ──大丈夫です。

 

 掠れた答えは声にならず、それでも先生には伝わったようだった。少年は温かい手に身を委ね、重い瞼を閉じる。青色はもう、浮かんでこなかった。

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