無料の駅

12:43過


「おはようございます。……あなたは、お客さんですか?」
 目が覚めると同時に、その問いは寄越された。僕は視界に映る怪しげな影と、喉を塞がれたような息苦しさに眉を顰める。何度まばたきを繰り返しても、いつもの鮮明な世界が戻ってこない。暫くジッとしていたら、影からニュッと一本の腕が伸びてきた。
「おはようございます。聞こえていますか?」
「……うん」
 ――あ、人だ。
 埃を払うような手つきで、影は僕の前髪を撫でる。小さく返事をすれば、腕はすぐに引っ込められた。そこで僕は、今まで気付かなかったことが不思議だが、アスファルトの道の真ん中で寝転がっていることに気が付いた。
「……ここは……」
「エリアB-26です」
「は……?」
 何かの暗号? 唐突に告げられたアルファベットと数字に混乱し、僕は仰向けのまま空を見詰めた。何だか、随分と汚い空だ。昼間の青色でもなく、夕方の赤色でもなく、夜の黒色でもない。洗濯機に突っ込まれた衣類のような、黄ばんだ灰色。それに向かって聳え立つのは、朽ちた古城を思わせる高層ビルの群れだ。まるで剣山のようだと思いながら、僕は傍に屈んでいる影に視線を移す。
「……ここはどこ」
「エリアB-26です」
「……本当に? ここ、僕がいつも使ってる駅と似てるよ」
「いつも?」
「いつも」
 影は不思議そうに首を傾げて、黙った。顔を覆う大き過ぎるゴーグルは、何処ぞの発掘家を連想させる。口は何処だろう。ああ、あった。……何か食べた後なのだろうか、口周りが汚れている。頭から変な布を被っている影は、その下に宇宙服のような分厚い衣服を纏っていた。防寒性は無さそうだとか、動きづらそうだとか、そんなことを考えていたら、影がおもむろに立ち上がった。
「……お客さんかどうか分かりませんが、お暇でしたらどうぞ入ってください」
 僕もいつの間にか立ち上がっていた。想像していたよりも背の低い影の後ろを追いながら、先程まで寝転がっていたアスファルトの通路をちらりと見遣る。やはりそこは、駅前にあるタクシー乗り場だった。肝心のタクシーは見当たらなかったが、代わりに大きなバスが停まっている。その折り畳み式の扉が開いたところで、僕は影に呼ばれた。
「こっちです」
「あ……うん」
 再びバスの方を振り返ったが、既に乗客を降ろしたのか、勢いよくエンジンを鳴らして去ってしまった。乱暴な運転だ。
 建物の中に入ると、見慣れた改札口が並んでいる。僕は毎朝ここにICカードをかざして、その奥にあるエスカレーターに乗っている。小学生による悪戯があまりにも多かったから、逆走しようとするとブザーが鳴るシステムが導入された。そのことを知らなかった僕は、ある日ふと鳴り響いたブザーで頭痛を引き起こしたことがある。その日は一日中、不快な気分だった。
「……あれ……」
 僕は改札口前で立ち止まる。切符を入れる挿入口は閉じられており、上部の画面には「お入りください」と表示されていた。影は乗車券を入れたりかざしたりすることなく、改札口を通過する。
「どうしましたか」
「切符、要らないの?」
「お客さんはお金を払わなくていいのです」
 影はそう告げると、戸惑っている僕を一瞥して踵を返す。いや、お客さんはお金を払うべきだろう。けれど改札口は沈黙を貫いたまま、僕の通過を許した。
 改札口の奥には、エスカレーターが構えていた。頭上の蛍光灯が切れ掛かっていること以外、大した異変は見当たらない。影は音もなくエスカレーターに乗り込み、ゆっくりと上がっていく。僕はその小さな背中を見上げてから、延々と黒い板を吐き出す乗り場を見下ろした。
 幼い頃、同じ幼稚園に通っていた女の子が、エスカレーターの乗り場で指を挟んで大怪我をした。確か、泣き叫んだ時には既に遅く、柔く細い人差し指は切断されてしまった。それほど親しくなかったものの、その光景を目の前で見ていた僕は相当の衝撃を受けた。
「おーい」
 影が呼んでいる。顔を上げると、エスカレーターを降りたところで僕を見下ろしていた。影は決して僕を置いていくことなく、律儀に待ってくれている。名前も知らない他人なのに親切なことだ。いや、もしかしたら影は駅員なのかもしれない。僕のよく知る駅と酷似した、この不気味な駅でお客さんとやらを迎えているのだろうか。
「大丈夫ですか」
「何が?」
 エスカレーターを降りると、影がそう尋ねてきた。曇ったゴーグルが、ちかちかと蛍光灯の明かりを反射する。
「いいえ、何も」
「気になる」
「行きましょう」
 何を心配したのだろう。僕は知らずのうちに強ばっていた頬を、指先で強く摩った。短い通路を左に曲がれば、すぐそこにホームがある筈だ。エスカレーターを降りたら、目的の駅でスムーズに改札へ向かうために、僕はいつも後方車両の待機列に立っている。ちらりと右斜め後ろを見遣れば、電光掲示板があって――。
「12:43過」
 僕はそこに記された文字を凝視した。今はお昼どきか、なんてことを考えた。そしてすぐに違和感に気が付いた。
「12:43発じゃないの」
 影に疑問をぶつけた瞬間、聞き慣れた音楽がホームに流れる。電車が近付いてくるときに掛かる、オルゴール調のアレだ。
「電車がまいります。黄色い線の内側でお待ちください」
 僕は足元を見遣る。そこには黄色い線など無い。否、あるにはあるのだが、それが「黄色い線である」と認識するには困難だった。タイルの存在を知らせる丸い凹凸は、靴裏のように擦り減っている。きっと沢山の人が力一杯踏み締めて、凹凸も黄色も消してしまったのだろう。
「あ」
 頬に何かが飛んできた。ぬるりとした感触を指でなぞり、離す。手の平に伝う赤色を辿っていくと、僕のワイシャツも白から赤に変わっていた。遅れてやって来たのは暴風と騒音。右から左へ、高速で通過する真っ黒な電車。すぐ隣で、影が何かを喋っている。
「お客さんではないのですか」
 ようやく聞き取れた頃には、もう電車は消えていた。残ったのは真っ赤な僕と影だけだ。
「……今のは?」
「電車です」
「誰が乗ってるの」
「誰も乗っていません」
 影は線路を覗き込む。釣られてそちらを見遣った僕は、そこに詰め込まれた肉に気が付いた。その数は、ホームに溢れ出しそうなほどだった。今まで何故気付かなかったのか。強烈な腐臭が鼻を突き、僕は思わず崩れ落ちた。
「電車は人を運ぶものではありません。それは昔の話です」
「昔……?」
「エリアA-1以外、この国に安息の地はありません。貧しい者達はA-1へ行くことは勿論、生きること自体が難しいのです」
「――だからここで死ぬの?」
 僕が食い気味に尋ねると、影は一旦言葉を途切れさせる。しかしそのまま、僕の質問には答えずに話を続けた。
「安息の地には溢れ返るほどの富があります。そこに住む者達は何不自由なく暮らしていますが……如何せん、“娯楽”が無い」
 影は体勢を戻し、電光掲示板の方を振り返る。そこに設置されている数台の監視カメラを順に見ながら、影はゴーグルを額までずり上げた。
「だからお金を払って電車を動かして、各地の駅を観ています。それが彼らの“娯楽”です」
「……は……」
「確か、大昔にも罪人を絞首や斬首の刑に処すとき……敢えて公衆の面前で行うことがあったそうです。初めは見せしめの為に。いつしかそれは、観衆にとって娯楽へと変化していきました」
「……待って」
「それと同じです。人が死ぬ様を観るために、彼らはお金を払って暇潰しをしているのです。だから“あなたがた”お客さんは無料で、いつでも駅を利用できます」
「やめろ」
「走り続ける電車に飛び込むだけで、希望無き世界から解放される。これほど便利な施設は他に無いでしょうね」
「やめろって言ってんだろ!!」
 影が口を閉ざした。僕は煩い心臓を抑え込むように、胸の辺りを強く握り締める。脂汗がこめかみを滑り落ちたと同時に、電光掲示板の表示が切り替わった。
「12:47過」
 ぞくりと背筋が冷たくなる。僕が踞ったまま動けずにいると、いつの間にか正面に影が屈んでいた。
「もう一度お聞きしましょうか」
「何……」
「あなたは――“カズくん”は」


 ――お客さんですか?


「カズくん!!」
 背中を強く引っ張られ、急激に締まった首に思わず咳き込む。握り締めていたスマートフォンが手を離れる。宙で回転する白い長方形は、視界の右からやってきた鉄塊によって弾き飛ばされた。続いてやって来たのは臀部の鈍痛と、手の平に走るヒリヒリとした熱だった。
 僕が尻餅をついている間、目の前を鈍色の電車が通過していく。前髪が風に煽られ、周囲からどよめきの声が上がる。
僕の制服は、汚れていなかった。
「カズくんでしょ?」
 思考が働かないまま、後ろを振り返る。そこには僕と同い年くらいの女の子がいた。強く掴まれている僕の右肩から、彼女の激しい動悸が伝わってくる。息を切らしたまま、彼女はもう一度、ゆっくりと問い掛けた。
「……カズくんだよね」
 その声は聞いたことがあった。否、先程まで聞いていた声だった。僕は声を出すことも出来ずに、彼女の手を見遣る。その人差し指は本来の半分ほどの長さしかなかった。僕はそれを確認した瞬間、堰を切ったように涙を溢れさせる。
 騒ぎを聞き付けた駅員がやって来るまで、僕は彼女の手を握ったまま、泣き続けた。

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