静穏 1.






 はっきりと覚えている記憶の中で、血の匂いがしない場所などなかった。

 物心がついたとき、既に自分は薄暗い施設の中にいた。肉体が張り裂けそうな痛みに晒され、生きているのか死んでいるのかさえ分からぬまま、冷たい床に横たわっていた。

『息を吐け。死んではならぬ。──オスカー』


 あのとき抱き締めてくれたのは誰だったか。たった一度だけ呼ばれた名を己のものだと信じたのは、何故だったか。まるで知りもしない、作れもしない友に抱かれているかのような錯覚に陥って、少年は瞼を閉じた。



 ◇◇◇



「オスカー様」

 聞き慣れた声で目を覚ます。片膝を立てた状態で眠っていたせいか、少しばかり身体が痛んだ。樹冠の影がちらちらと揺れては視界を眩ませる木陰で、オスカーはゆっくりと顔を上げる。

「お身体の具合は如何ですか」
「……。リーゼ」

 そこに屈んでいたのは、長い真朱の髪を綺麗に結い上げた女性──リーゼロッテだった。アンスルの新しい女王になったというのに、彼女は頻繁にソーン王国へ足を運んでくる。目が合うなり嬉しそうに微笑む姿は、昔と変わらないようでいて、随分と違うような気もした。

 ダエグの実験施設で長期にわたる軟禁生活を送っていたオスカーは、二十二年ぶりに再会した両親の厚意によって離宮での静養期間が与えられていた。自身が拉致された王族であったことは勿論、本来ならば王太子となるべき存在だったなど、オスカーは当然だが知りもしなかった。

 ゆえにソーン国王夫妻は、王太子には十年ほど前に迎えた養子を据えてあることを伝えた上で、ゆっくりと休むよう告げたのだ。

『ああ……本当に、よくぞ生きて……』

 王という立場も忘れて泣き咽ぶ父は、度重なる心労で痩せこけていた。オスカーと同じ紺藍の髪を持っていたという母は、あまりに泣きすぎて咳き込んでしまっていた。その度合いは家族との接し方が分からないオスカーが、柄にもなく戸惑いを露わにしてリーゼロッテに助けを求めたほどである。

 聞けば、オスカーには二人の弟妹がいたという。長兄に続いて二人とも施設に連れて行かれ、ミグスの実験体にされてしまった。残念ながら彼らについては未だに発見されたという報告がないため、ミグスを食らった直後に命を落としたと考えるのが妥当だろう。

 その代わりに判明したのが、イェニーという少女が王家に連なる血筋であったことだ。オスカーの従妹にあたる彼女は公爵家の一人娘だったらしく、聖王国から帰された日はそちらも大変な騒ぎになっていたとか。

 ──彼女には皇太子暗殺未遂の容疑も掛かっていたはずだが、聖王国側がどうやら忖度をしたようで、その件については一切触れられていなかった。

「今日もお勉強を?」

 半年間の忙しない記憶を遡っていると、いつの間にかリーゼロッテが隣に腰を下ろしていた。眠りに落ちるまでオスカーが読んでいた語学の教本を手に取り、ぱらぱらと頁を捲る。

「分からないところはないのですか? 私でよければお答えしますよ」

 教本に目を通しながら、リーゼロッテは柔らかな声音で告げた。美しい翠玉色の瞳が文字を追うたびに微かに動き、時折日の光を反射して煌めく。あの薄暗い施設の中では病弱そうに見えていた白い肌も、外ではこれほど瑞々しく見えるのかとオスカーは今でも驚いてしまう。

「オスカー様?」

 羽の髪飾りが揺れる。りん、と涼やかな音と共にこちらを振り向いた彼女に、オスカーは静かに言葉を紡いだ。

「……それは、もう理解した」
「まあ。では私とお話ししてくださいますか?」

 教本を膝元に置き、彼女が顔をそっと覗き込む。ほんの少し背を反らしつつ、オスカーは小さく頷いた。

 こちらの表情が乏しいおかげで、昔からリーゼロッテはこうしてオスカーの感情を汲もうとしてくれる。彼女も一見して周囲に冷たい印象を与えがちだというのに、オスカーに対してはいつだって積極的に対話を試みていたように思う。

 そのことにずっと感謝はしていたのだが、如何せん互いの立場が難しく伝える機会は終ぞ訪れなかった。

「この前、聖王国でニコに会いましたよ。お父上の手伝いをしているそうで」
「手伝い?」
「ええ、バルドル殿が王立学問所に復帰なさったから、“じょしゅのれんしゅう”をしていると」

 助手の練習──助手とまでは言えないが、とにかく色々と見学したり勉強したりしているのだろう。多分そういう意味だ。ニコの独特な表現を咀嚼していると、リーゼロッテが可笑しげに肩を揺らす。

「ニコと古代語で話しているときも、そのようなお顔をされていましたね」
「たまに、よく分からないことを言い出すから」
「どのようなことを?」
「“セヴェリを火干しにしたい”とか」
「ひぼし……」

 精霊王のことが苦手なのは察していたが、あの発言はさすがに同情した。

 ニコとは彼女が二歳か三歳ぐらいの頃からの付き合いだ。紅いミグスを直接摂取して無事だった者同士、そして古代語で話が出来る者同士、兄妹のように育ったと言っても過言ではない。無論、それは一般的に言う幸せなそれとは異なるものだが、あの少女とだけは確かな繋がりを感じられたものだ。

「……元気だったか」
「はい。エリク殿と一緒に楽しく過ごしているようですよ。……今度、会いに行きましょうか。向こうで魔法も使えるようになったことですし」

 思わぬ提案にオスカーは目を瞬かせた。確かにリーゼロッテの移転魔法なら、すぐにティール聖王国へ渡ることが出来るだろうが──取り敢えず前々から気になっていたことを、オスカーはこの機会に尋ねてみた。

「リーゼ」
「はい?」
「無理を、しているだろう」
「え」

 今度はリーゼロッテが呆けた顔でこちらを見遣った。翠玉色の瞳がまあるく見開かれていることを知りながら、オスカーは日向にある小川へ視線を移す。

「……こうやって、頻繁に来なくてもいい。王の仕事は多いだろう」

 ただでさえアンスル王国は先王のせいで荒廃していて、リーゼロッテはそれを立て直しつつ他国との連携にも注力しなければならない。今やイナムス大陸はかつてのように二分されておらず、南北で手を取り合って生きようとしているのだ。各国の王は今まで以上にあちらこちらへ赴き、話し合いをしたり視察をしたりと忙しない。

 女王の即位と共に議会を再編した新生アンスル王国は、他の国よりも更に多忙であることは明白だ。国内で起きた暴動の鎮圧、それによって生じた被害への対処、国民の王家に対する信頼の回復──とにかく仕事は山積みだろう。

 施設にいた頃、グギン帝国の皇帝になるべく教育を施されていたオスカーは、そういった国家の問題というものも学んだことがあった。だからこそ、時間を見つけてはソーンを訪れる彼女の疲労が気になって仕方がない。

「それに、もう婚約者でもないのだから──……リーゼ?」

 最後にぼそりと付け加えた言葉が、リーゼロッテに手酷い一撃を叩き込んだとは露知らず。隣を見遣った頃には、半ば魂が抜けたような顔で空を仰ぐ彼女の姿があった。

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