糸を手繰り寄せて 1.







『ミラージュ、ここから逃げてくれ』

 消えた燭台の火。打ち砕かれた硝子戸。しんと静まり返った薄暗い回廊には、動かぬ屍となった兵士たちが転がっている。血と絶望の匂いが立ち込める空間で、彼は自身の負傷した左腕を布できつく縛り上げながら囁いた。

『何故……ですか。それなら貴方も』
『頼む。貴女は血を流してはいけないのだろう? もしも万が一、皇帝の刃を受けるようなことになれば再生の術が──とにかく貴女さえ無事なら、私はまた何事もなかったかのように生き返るさ』
『……っ』

 脂汗を滲ませながらも、彼はこちらの気分を軽くするためか他人事のように笑う。だが彼の清らかな青白磁の髪は血や煤で汚れ、先程“兵士”から紙一重に受けてしまった傷も痛々しい。危険を冒してまで彼がこの離宮へ駆け付けた理由は、ひとえに身動きが取れずにいたミラージュを逃がすためなのだろう。

『い、嫌です、アーネスト様……! 私のミグスはもう残り少ない! 次も無事に術が発動するかは……』

 分からない。せめてこの力が自分の意思で操作が出来たなら、己の頼りなさが少しはマシになったのかもしれないのに、と幾度となく悔やんだことをミラージュは喉元で押し留める。その代わりに彼女はアーネストの右手を掴み、必死に懇願した。

『どうしても大神殿へ向かうと仰るのなら、私も参ります! 今度こそ貴方の命を繋ぐからっ……どうか』

 強く瞼を閉じると、小さな苦笑が降ってくる。涙に濡れた黄昏の瞳で見上げれば、アーネストが少しの躊躇いを宿した手つきで彼女の頬を撫でた。

『……大丈夫だ。貴女の力はまたきっと、このイナムスに救いの機会を与えてくれる。今回も私の力不足で失敗に終わったわけだが……次こそは生きてみせる。帝国の復活を阻止してみせる。だからミラージュ、貴女も絶望に屈してはならない』


 ──振り返らずに、歩き続けてくれ。


 真っ黒に塗り潰された「未来」の先、そこで確かに輝いているはずの希望だけを見据えて。



 ◇◇◇



「──ミラージュ殿がお目覚めになってから早一か月。初めは仮病で訪問を躱され、ここ数日では手紙で訪問拒否を言い渡され、それでも諦めずに扉を叩いた殿下、今日も朝から居留守を使われ見事に玉砕!」

 どっ、とフランツとカイが盛大に手を叩いて笑う。その無礼千万な口上を聞かされたアーネストは、不機嫌を隠そうともせずソファで不貞寝をしている最中である。

「……それを言いにわざわざ執務室まで来たのかお前たち。第一カイはアンスルに帰ったのではなかったか」
「いや、皇太子様と魔女様の行く末を見届けるまでは城にいなきゃと思って」
「そんな義務感はさっさと捨てると良い」

 ソファでうつ伏せに寝そべったままカイを指差す。皇太子にあるまじき所作だが、正直そんなことにも構っていられないほどアーネストは憔悴していた。

(ミラージュ殿が、全く取り合ってくれない!!)

 ひと月ほど前に起きたグギン教団による急襲。その事後処理に追われながらも、アーネストは何とか時間を見つけてミラージュに面会を試みた。

 カイの証言通り、彼女の体調はかなり早い段階から回復しており、世話をさせている侍女から見ても貧血の症状は軽くなっているという。医師の薦めでしばらくは城で静養することが決まったものの、ミラージュは頻りに「大丈夫だから帰らせて欲しい」と言っているそうな。

 そうも必死にここから逃げたがっている様子を知ると、アーネストも焦りを覚える。躊躇うことなく職権乱用してミラージュの滞在期間を延ばし、山積みの仕事を文官たちが引くほどの速さで片付けてきた。おかげでようやく余裕が生まれたわけだが、肝心のミラージュとは一度も言葉を交わせていないまま。

「いやぁ、お労しい殿下。縁談は腐るほど舞い込むのに、ミラージュ殿からは音沙汰一つ無いなんて」
「手紙は貰っただろ。もう来んなって」
「やめないか、そろそろ私が死ぬ」

 こいつらだってマトモな女性関係を築いているというわけでもないのに──アーネストは恨みたっぷりに二人を半眼で睨みつける。その何ともどんよりとした視線を受けてか、カイが乾いた笑いをこぼしてそっぽを向く一方、フランツが不思議そうに口を開いた。

「そもそも殿下、どうしてそこまでミラージュ殿とお話しがしたいのです? いえ、貧血で臥せっていたミラージュ殿に迫ったことは勿論存じ上げていますけど」
「そこは忘れておけ、後悔はしてないが何か申し訳なくなってくる」
「してないんですね」

 アーネストは盛大な溜息と共に体を起こし、乱れた青白磁の髪を掻き上げる。

「派兵先のリボー領で何が起こるのか、彼女がお前に伝えてくれたんだろう?」
「! ……ええ」

 心臓に悪いのであまり思い出したくないが、ネイサン率いる第三師団が寝返り、危うく命を落としそうになったあの日。フランツの働きが無ければ自分はきっと死んでいたと──残念ながら断言できる。そして前もってその危機を伝えることが出来たのは、先見の魔女であるミラージュ以外にはいなかった。

 加えてあの派兵を凌げたからこそ兄リューベクを奪還し、ティール各地に散っていた蒼穹の騎士団や増援としてやって来てくれた連合軍に合流することが出来た。感謝してもしきれないほどの恩が、彼女にはあるのだ。

「私はその礼すら出来ていない。……それと、少し気がかりもある」
「気がかり?」
「ああ……」

 生返事をしてアーネストは顎を引いた。

 暫しの沈黙を経て、彼は気合を入れて頬を叩く。勢いを付けてソファから立ち上がり、無造作に放っていた上着を羽織った。

「フランツ、もしお前が私と同じ立場だったらどうする」
「私ですか? 侍女でも使って油断させて、扉を開けてもらったら強引に部屋に入りましょうかね。そこで泣き叫ばれたり怒られてもまぁご褒美ですので」
「分かった。私はまだマシだと自信が持てた」
「それは良かったです」

 顔色一つ変えない臣下の横で、カイが言葉を失っていることなど知らず、アーネストは大股に執務室を後にしたのだった。

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